小椋 聡さん&小椋 朋子さん

地区:加美区三谷

西宮市の生瀬から、2013年に多可町に移住してこられた小椋さん夫妻。お二人とも音楽大学を卒業され、聡さんは作曲、朋子さんはパイプオルガンを専門に勉強されていました。
現在、聡さんは個人でイラストレーター&編集デザインの仕事を、朋子さんはパイプオルガン奏者として活躍中です。
また自宅の一角を使って手作りのオリジナル作品などの雑貨店兼コワーキングスペース、シェアキッチンとして利用できる「古民家空間 kotonoha」を経営されています。
2016年9月から、お二人には多可町定住コンシェルジュとして、移住希望者の相談や案内、移住定住に関する取り組みのアドバイザー的な役割も担っていただいています。

小椋 聡さん(コトノデザイン代表/古民家空間 kotonohaオーナー/紡 —TSUMUGI— 代表)
小椋 朋子さん(古民家空間 kotonohaオーナー/パイプオルガン奏者)

コトノデザイン
TEL:0795-20-8253 FAX:0795-20-7484

https://kotono-design.com/

多可町の定住コンシェルジュに認定

定住コンシェルジュとは、移住希望者の相談や案内、移住定住に関する取り組みのアドバイザー的な役割を担っています。多可町で移住定住を考えられている方は、お気軽にご相談ください。

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  • 帰る場所が無い

    聡さん:僕が生まれたのは大阪なんですけど、すぐに博多に引っ越しをして小学校1年生までそこで育ちましたので、大阪の記憶は全然ありません。その後も、父の仕事の関係で転居が多くて小学校は4回変わりましたし、海外にも住んでいたことがあります。台北の日本人学校に通っていましたが、一番多感な6年生から中学2年生までいたので、その頃は日本に帰りたくてしかたがなかったですね。なので、「どこの出身ですか?」って聞かれても何と答えて良いのか分からないし、帰る場所も無いんです。

    朋子さん:私は逆に、生まれてからずっと大阪の豊中で育ちました。結婚する前から彼の実家で一緒に生活をしていたのですが、そのときに初めて奈良に移り住みました。夫は私より1つ年下ですが、1年浪人をしているので学年は2つ下で、先に私が卒業をしてしばらく演奏活動をしていました。彼が大学を出た春に届出だけを出して結婚しましたけど、なんだか最初からハチャメチャな感じでしょ。

    聡さん:ウチの両親も彼女の両親も、あまり固定概念に縛られるような人ではないのですが、今考えるとよく許してくれたな…と思います。
     父の生まれ故郷は、鳥取県と岡山県の県境にある木地山という集落なのですが、多可町よりももっとすごい田舎で、集落の中は全員「小椋」なんです。祖父母が生きていたときはよくここに帰省していましたが、僕にとってのいわゆる「田舎」の原点はここだと思います。家の裏にきれいな川が流れていたので、滝壺で泳いだりイモリやクワガタを捕まえて遊んでいました。

    朋子さん:私にはこういう田舎が無かったので、結婚後に連れて行ってもらうようになって「やっと自分にも田舎ができた!」と思ってとても嬉しかったです。祖父母も「田舎のおじいちゃん、おばあちゃん」っていう感じの素敵な人で、とても可愛がってもらいました。


  • 動物保護施設での経験

    聡さん:僕は武満徹さんのような作曲家になりたかったので、結婚後もしばらく舞台の音楽を作ったり、コンクールに応募したりしていましたが、27歳のときにイギリス人が主宰している民間の動物保護施設にスタッフとして働きに行くようになりました。阪神淡路大震災で被災した動物や、捨てられたり虐待された動物を保護している施設です。最初にそこを訪れたときに「ここで仕事をしないと!」って思い立ったので、妻と共に能勢に移り住みました。

    朋子さん:小さな小屋みたいな家で家賃が3万円でしたけど、とても景色が良いところで気に入っていました。外国人のボランティアがたくさん来る場所だったので、私たちが管理人というかお世話係みたいな感じで、いつもいろんな国の人が我が家に出入りしているような状態でした。

    聡さん:すごくやりがいもあったしおもしろい経験でしたが、国も文化も全然違う人たちとずっと関わるのはなかなか大変でした。若かったからできたんでしょうね。でも、その施設で経験したことは、その後の自分の人生にとても大きな影響を与えました。犬や猫って、いったんはペットとして人間の都合で家庭に迎え入れられるのに、様々な事情で捨てられたりして行き場を失ってしまうんですよね。それを行政が税金を使って殺処分をしている…。悪いのは自治体の職員ではないのですが、いわれの無い非難を受けていたりするんです。結局、一番弱いところに全部しわ寄せがいって、何だか社会の歪んだ縮図のように感じていました。

    朋子さん:なので、我が家では病気や高齢の動物を引き取って、ずっと看取りをしてきました。もう12頭見送りましたし、つい最近、16歳の老犬を看取りましたので、今は老猫が2匹だけになりましたけど…。


  • 初めての会社勤め

    聡さん:3年ほど施設で働いて、その後、1年かけてNPO法人をひとつ立ち上げました。自分の力不足だったんでしょうね。自分のお金を使い果たして「さて、どうしよう…」ってなったときに、31歳で初めて会社勤めをすることになりました。そのときは西宮市の生瀬というところに住んでいたのですが、美術の展覧会の企画運営をする大阪の会社で、そこの編集デザインの部署で働くことになりました。31歳で社会人デビュー、遅いでしょ。

    朋子さん:面接のときに、犬の話をしたのが社長さんに気に入られたみたいで、一次面接で採用になったみたいですよ。今でもその社長さんご夫妻とは家族ぐるみのお付き合いがありますが、私たちのこれまでの歩みって、いつも良い人たちに恵まれて来たな〜って思っています。

    聡さん:会社勤めはやること成すことすべて面白かったです。「へ〜、会社ってこんなところなんだ」って感じでした。入社して1年弱で僕の直属の上司が病気で退社することになったので、社長から「一番歳を食ってるから、おまえが編集長をやれ」と言われて、その部署を任されることになりました。
     人生って面白いですよね。どこで何がどんなふうに繋がっていくのか分からない。この会社は国内外のあちこちでいろんな展覧会を企画していたので、僕もときどき海外に一緒に付いて行ったりして、美術館やアーティストの取材をしていました。ここの会社では、ホントにいろんな経験をさせて頂きましたし、ここでの経験が無ければ、きっと今の個人事業もうまくいってなかったんじゃないかなと思います。


  • JR福知山線脱線事故に遭遇

    聡さん:僕が35歳のときですが、通勤途中でJR福知山線の脱線事故に遭いました。2両目に乗っていて、激突してペチャンコになったところのちょうど柱の裏辺りに足を挟まれて、上から反対向いてぶら下がっている状態でした。足の骨が折れて全身打撲だったので、鞭打ちが直るまでかなり時間がかかりました。この事故も自分の人生とか考え方に大きな影響を与えましたね。人って歳の順に死ぬんじゃなくて、ある日突然、命を奪われることがあるんだ…って思いました。

    朋子さん:そこから数年はホントに大変でした。夫は、亡くなった方が一番多い場所で助かったということもあって、一生懸命事故調査のことや遺族との取り組みに関わっていました。見ていて痛々しいほどでしたが、一緒に活動していた遺族が途中で自死したり遺族のとても重たい話をずっと耳にしていたので、逆に私の方が病気になってしまって事故から3年後ぐらいに2回入院しました。

    聡さん:このまま妻を家に一人にはさせておけないと思ったので、彼女が入院している間に会社を辞めました。会社を辞めて「さて何をして生きていこう…」と思ったのですが、「せっかく助かった命だから、自分が一番やりたいことをやろう!」と思って、保護施設にいたときからずっと関わってきた「動物のいのちと子どもの教育」ということをテーマにして仕事を始めました。そうは言っても、そんな仕事が果たしてあるのかどうかさえも分からずにやり始めたので、独立してから最初の2年はホントに大変で、ご飯を食べるのがやっとでした。いつも請求書が手元に何枚か溜まっていて、順番に遅れ遅れ処理していたような日々でしたね。


  • 家賃から逃れたい!

    聡さん:当時は賃貸の家に住んでいて、室内で動物を複数飼っても良いという条件だったので家賃が結構高かったんです。木枠の窓で、庭に大きなモミジの木があったのでとても気に入っていたんですが、会社勤めのときは何とかなっていましたけど、個人で仕事をやり始めるとほとんど家賃で消えていくという感じでした。もともと田舎に住みたいという希望はあったけど、移住を考え始めたのはこの家賃から逃れたい!というところから始まったんです。
     最初は、仕事の合間を見て宝塚北部の西谷や篠山などをドライブしながら、何となく自分が気に入りそうなエリアを探していましたが、妻は最初、移住には反対していました。

    朋子さん:その頃は自分の病気が一番ひどかったこともあって、考え方がとてもネガティブだったということもありますけど、知らない場所に引っ越しをすると友達が来てくれないんじゃないかとか、ご近所さんとうまくお付き合いができるかな…など、いろいろ心配事ばかりが気になっていました。それに、毎週大阪の教会でパイプオルガンを弾いているのでそこに通える場所じゃないとダメだったので、それも家探しを難しくしている要因のひとつでした。


    聡さん:僕は財産を持つのが嫌だったので、最初は賃貸で探していました。僕は自分で家を改装したかったので「家の中を触っても良い」という条件で探していましたが、なかなか見つかりませんでした。途中、篠山で家賃5万円の立派な古民家で蔵も付いている物件があって、妻はそれを見たときにとても気に入ったみたいで、そこから移住に俄然前向きになりました。でも、よくよく考えてみると5万円の家賃を5年間払い続けると300万…もしかしたらボロボロの古民家だったら買えるかも、と思い直して、そのとき初めて購入ということを考え始めました。


  • 多可町との出会い

    朋子さん:兵庫県に長く住んでいますが、当時は「多可町」という名前も知りませんでした。篠山から足を伸ばして丹波方面にも探しに行っていましたが、そこの不動産屋さんの奥さんが「私が個人的に気に入っている多可町というところがあるんですけど、そこは水が綺麗でホタルが飛んでいますよ」と言ってくださり、初めて多可町でも探してみようということになりました。
     今でも毎週大阪に通っていますが、多可町なら何とかギリギリ行けるかな…という距離ですし、何よりホタルという言葉がとても魅力的でした。

    聡さん:妻がネットで見つけた物件が今の家なんですけど、最初に不動産屋さんに案内してもらったときは、なかなかすごい状態でした。床もぶかぶかで底が抜けている部分もありましたし、一部雨漏りもしていて、イタチのウンチが廊下に山盛りになっていました。でも、柱も屋根もしっかりしていたので、これは自分で何とかできそうだな…と感じました。何よりきれいな水の川の隣だし、そこにホタルが飛ぶってお聞きしたので決めました。

    朋子さん:私はここは無いだろうな…と思っていたのですが、夫が帰りの車の中で「オレ気に入ったかも」って言うので、「マジですか!?」って感じでした。でも、隣の家とは適度に距離があって、かと言って離れ小島でもないし、千ヶ峰の麓なので景色もきれいので、場所としてはとても良いところだなと思っていましたけど。

    聡さん:ああいうボロボロの家を見るとワクワクしますよ。自分で好きなように直したかったので、きれいな状態にリフォームされている家は嫌だったんです。


  • こころが帰る場所

    聡さん:多可町には、ここで生まれてここで育ったという方がたくさんおられます。僕が歩んできた人生とはまったく逆ですよね。小学校時代の同級生が同じ集落にいたり、地域の幼稚園の先生が、昔、お世話をしていた子どもたちが近所で大人になっていたり…。
     一度、都会に出てから戻ってきても、地域の皆が自分のことを知っていてくれるっていう環境は、ここで暮らしている人は当たり前のように思っているかもしれないけど、でもそれは当たり前のことじゃないんですよね。嫌な面もあるかもしれないけど、いつでも帰って来られる場所があるっていうのは、実はとても安心なことなんじゃないかなって思うことがあります。

    朋子さん:ここは車でどこを走っていても山に囲まれているんですよね。それがすごく心地よくて、安心できるというか心がやすらぎます。それに、集落の人達がとてもいい人ばかりで温かいんですよ。べったり干渉されるわけでもなく、よそ者扱いされるでもなく、ちょうどいい距離感でお付き合いさせてもらってます。朝起きたら、玄関に季節の野菜がポンと置かれてあることもしばしばだし、集会所の集まりで演奏をさせてもらったり、ホントにお世話になってます。

    聡さん:「こんなに何もないところに、なんでわざわざ来たの…」ってよく言われますが、この小さな規模のコミュニティが僕にとっては心地良いんだと思っています。電車も走っていないので駅も無いし…。でも、駅がないから宅地開発をされることなく、きっとこのままの姿でいてくれるんじゃないかなと思っています。それはとても贅沢なことなんですよ。気がついていない人が多いと思いますけど。
     人にはそれぞれ、自分のこころの波長に合う場所のようなものがあって、出張から帰って来たときにも、「あ〜、やっと帰ってきた」と安心できる場所が必要なんだと思います。多可町は僕の生まれ故郷ではないですけど、そうした「こころが帰る場所」というのを持てるということは、とても人間的な暮らしだと感じながら生活をしています。