VOL. 26

GIGLIO ALESSANDORO(ジリオ・アレッサンドロ)さん&菊池 しおりさん

地区:中区門前

再開発すさまじいJR明石駅前、そのマンション高層階から多可町は門前の静かで小さな一軒家に移り住んだジリオさんご一家。超が付くほどの便利な都会暮らしから一変、ゆったりと流れる田舎時間に身をゆだね、ご夫婦がずっと探し求めてきた理想の暮らしをスタートさせたようです。(R4.6.3)

アレッサンドロさん(イタリア料理シェフ)
しおりさん(イタリア語通訳・翻訳)

  • ローマ生まれのローマ育ちでもずっと田舎に憧れていた

    アレッサンドロさん:幼い頃はやんちゃですぎて、親戚からも「アレッサンドロは大丈夫?」と心配されるような子どもでした。その一方で、郊外のきれいな場所に出向いて小さな村を散策するのも大好きでした。壁画や遺跡などを見つけるのが楽しいのです。ローマ育ちですが街は疲れちゃう。将来は田舎に住みたいと子どもながらに願っていました。

    10歳で「武道」に出会いました。イタリアには柔道、空手、合気道などの愛好家が多くいて、日本の武道は盛んに行われています。僕も魅了され、連日稽古に打ち込みました。
    武道への取り組みは、はじめは体力的なところからでしたが、徐々に内省的なものになっていきました。おかげでやんちゃさも落ち着いていきました。
    空手とボクシングがミックスされた「フルコンタクト」、そして、日本の先生と知り合って「居合道」「整体」を習い、精神統一のために「弓道」も始めました。日本への興味は若い頃から持っていたのです。


  • 明石の花屋に生まれた、素直な子

    しおりさん:私は明石駅前の商店街の花屋に生まれました。高度成長期時代の子どもで、周りのみんながそうだったように、たくさんの習い事をして育ちました。そろばん、習字、オルガン、塾などですね。
    なんせ私の親は商売人ですから、「習字ができたら店の看板書けるやろ。そろばんできたら店の計算できるやろ」みたいな考えで習わせていたようなんですが(笑)、親の策略に素直に従っていましたね。
    でも、私は将来花屋になるのは無理!と思っていました。忙しいときの大変さを知っているし、寒いし冷たいし、私は私で自由にやらせてもらうわと考えていたんです。なりたかったのは英語の「通訳」です。
    英語が好きで英文科に入り、留学もさせてもらいました。でも実際、アメリカで自分の英語は通じなかったし、世の中には自分より英語が上手な日本人がいっぱいいるとも知って、卒業後はOLに。三宮の建築内装資材メーカーに勤めました。


  • “気”が入った料理

    アレッサンドロさん:18歳で最初に就いた仕事は「美容師」でした。ローマ郊外に「チネチッタ」という映画の撮影所があり、そこにある美容院で働き出しましたが、どうも僕は美容師に向いていないと気づきました。お客さんに話し掛けるのが苦手だったんです。武道で自分の内面を問いただしている時期でしたので、気持ちに素直に「辞めよう」と思いました。
    次は同じチネチッタにあるレストランに勤めることにしました。皿洗いからのイチからの修業でしたが、このほうが自分には合っていました。その頃はまだイタリアに兵役があり、僕もミリタリーをしながら夜はレストランで働きました。

    今はもう亡くなりましたが、日本の整体の師匠に僕の料理を食べてもらったときに、「“気”が料理に入っている」とほめてもらったことがあります。先生はパスタが大好きな人でした。

    料理人として順調に歩み、昼間は会社の食堂、夜はレストランと、二か所で働くようになりました。しかし、100人分の食事を作って運ぶといったハードな仕事も増えていき、疲労やストレスがたまり、体調を崩しました。「大好きだけれど、料理の世界から一度離れよう」、そう決めてローマの小学校の用務員さんに転身したこともあります。


  • 出会いはローマ デート(?)は大津の病院で

    しおりさん:OL時代は経済的にも潤っていて、友達と海外旅行に出かけたりしてのんきに楽しんでいましたが、勤めて3年ほどしたとき、父から「わし、もう目ぇ見えへんし車の運転出来ひん。花屋の仕事を手伝ってくれ」と召喚がかかったんです。実家に戻りました。そしてその頃から「イタリア語」を習いに行くようになりました。
    イタリア語に興味を持ったのはOL時代にイタリア旅行をしたことからですね。料理はおいしいし、イタリア人はおもしろいし。
    英語の通訳は無理だったけれど、イタリア語の通訳になれるかも!?と夢を持ち、29歳の頃、イタリア留学を母に打診しました。「今行かせてくれへんかったら、枕元で恨み言を言うよ」って(笑)。
    1年の約束で行ったイタリアですが、結局7年行っていました。語学学校、市民大学などで言葉だけでなく植物療法なども学びました。学生に日本語を教えたり、日本人旅行者の通訳をしたり、イタリアにワインや服を買い付けに来た日本人の案内をしたりと、いろいろなアルバイトもしました。
    この人(夫)に出会ったのもその頃。日本語の個人レッスンをしていたんです。

    アレッサンドロさん:整体の先生から日本語を勉強するよう言われていたので。

    初めて日本に行ったとき「あれ? 空気がない?」とビックリしたことがあります。蒸し暑すぎて息がしづらかったんです。日本にはその後も行きましたが、武道の修行仲間と軽い気持ちで比叡山に登り、そこで滑落して、頭に大ケガを負いました。35歳くらいの頃です。

    しおりさん:そのとき私たちは大阪で会う約束もしていたのですが、友人から連絡があり、「彼は行けない。大津の病院に入院した」と聞かされてビックリしました。お見舞いに行ったら病院食が食べられないと言い、トマトのパスタを作ってきてほしいとか、手作り弁当の要望をいろいろ言われましたね。大事故でしたが、仲を深めたきっかけにもなりました。

    アレッサンドロさん:事故に遭ってからはガラスドームの中にいるような感覚。ぼんやりして疲れやすくて、太陽の日差しが苦手になり、つらくて地獄のようでした。体調が比較的落ち着くまでに10年はかかりました。


  • 再び料理人に リスタートを切るために来日

    しおりさん:結婚は二人ともが37歳のとき。私はその頃、イタリアのこの人の実家に住んでいたんですが、二人で「日本に住みたいね」とよく話していました。
    私は、イタリアのワイン雑誌や料理本を日本で必要としている人に送るような仕事もしていて、島根のとあるイタリアンレストランから本の発送依頼が来たのをきっかけにつながりができ、「夫は料理人なんですが、そちらで働かせてもらえませんか?」「いいよ、いいよ」という話になって、まず島根に移住しました。長女がお腹にいるときでした。

    アレッサンドロさん:山から落ちてまだ数年の頃で体調が整わず休みがちになり、島根のお店は結局2年ほどで辞め、今度は北イタリアへと向かいました。

    しおりさん:そんなふうに今後を模索していた頃に私の父が「顔の見えるところに帰って来い」と、父の所有していた明石のマンションをリフォームして呼び寄せてくれたんです。次女がお腹にいるときでしたね。

    山から落ちてからは、勤めに出るのは難しいとわかったので、明石で小さな自分たちのお店を開くことにしました。「アレ・クチーナ・イタリアーナ」という名前(「アレさんのイタリア料理」の意)の、わずか3席の、テイクアウトがメインのお店です。自分たちのペースで、使いたい食材を用いて、おいしいと思うものを心を込めて作る、そんなお店で満足度は高かったです。ただ、いい食材を使うと材料費が上がって、経済的にはしんどかったです。


  • 理想の暮らし・理想の土地

    しおりさん:お店は9年続けました。明石はその間にもどんどん都会になっていき、長女が「排気ガスのにおいがツライ」と言って明石を出たがり、中学校から帰ってくるなり毎日住宅情報を検索するようになりました。校内の環境も長女には苦しかったようでした。

    私は、明石は明石で好きでしたが、本当に自分たちがしたい暮らしではないようにも感じていました。いずれは自給自足とまではいかなくても、畑を持って農的な暮らしをしつつ、そこに自分たちの得意なことを足して暮らしたい。水のきれいな、心地いいと思える環境に身を置きたいと願うようになっていたんです。夫はローマ育ちだけれど子どもの頃から憧れていたのは田舎暮らしだという人ですから、理想の暮らしを求めて住まいを変えることにまったく抵抗はありませんでした。

    北海道、長野、岡山、京都、広い範囲で探しました。兵庫は兵庫で丹波に青垣、神河町そして篠山、いろいろ候補に挙げ見て回りました。近年のコロナ禍で、緊急事態宣言が出てからは県内移動しかできなくなったので兵庫県に絞って探し、多可町内だけでも何軒も見せてもらいました。

    多可町のことはずいぶん前から知っていました。ジェラートのおいしいお店を探して「wacca」さんに来たのがきっかけです。
    「多可町に暮らそう!」と決めたのは、「おもしろい人たちが集まってきている」と聞いたことと何より物件が安いこと、役場の人と移住者と地元の人のつながり方がいいところ、そういうのが決め手になりました。まず曽我井のアパートに令和3年の5月に家族4人で越してきて、そこを拠点に家を探しました。長女中3、次女小6の頃です。

    長女は、明石で見せていた息苦しさから解放され、多可町の中学校がすぐに好きになり、本来の明るさを取り戻したように伸び伸びしだしました。次女は変化を嫌うタイプなので新しい環境に最初はなじめないようでしたが、今はぼちぼち楽しんでいる、そんな感じです。

    多可町は小中一緒の給食で、和洋中だけでなくハワイ風とか韓国風とかメニューが豊富で、「地域のものを食べよう」とか、「今日は〇〇中学の考えた給食です」とか、「お母さんも食べた~い」と思うほど素晴らしいんです。姉妹共通の話題で娘たちは嬉しそうにしていました。

    アレッサンドロさん:この家は、僕が散歩中に見つけたんです。子どもの頃ローマ郊外を散策したように興味の向くまま歩いていて見つけました。家の第一印象は“まるでジャングル”でしたね(笑)。

    しおりさん:ここは広い山林に小さな宅地が付いている物件。聞けば、どなたも一度も住んだことのない家なんだそうです。私たちも家は小さくていい。畑が持てて、イタリア料理やお菓子を作る加工場を建てられればそれでいいし、広い古民家よりも簡単に掃除ができる家のほうが都合がよかったんです。

    でも、玄関にたどり着くまでには森のような草木を倒さなければなりませんでした。
    曽我井の家から通い、夫と二人ちまちまと作業をして、友達がお助け隊として来てくれて一気に地面が見えたのが令和3年の10月。翌11月にここに越してきました。


  • 心配事にはスポットライトを当てない

    しおりさん:村の人たちは皆フレンドリーです。「この村ってクマが8匹おるん、知ってる?」なんて言われて真に受けていたら「俺の名前は熊田や」って笑っておられるんです。そんなふうに笑わせてくれるし、ケーキをプレゼントしたら野菜になって返ってくるし、温かいですよね。
    「お菓子やパンを作って売るお店を始めたい」という私たちの計画を話したら、「わしらが生きとる間に開店してな」「開店が決まったら村の一斉連絡ファックスを流してよ」と、みんなして応援してくれている感じがすごく伝わってきます。

    多可町には気持ちに余裕のある方が多いと感じています。たとえばレジの方とかも優しい。ホームセンターでビスを買うのにサイズが合っているかを聞いたら売り物なのに箱を開けて一緒に確かめてくれたり、郵便局でも筍を送る箱で迷っていたら作るところから手伝ってくれたり、明石だったら後ろの人の視線に耐えられないと思います。

    アレッサンドロさん:子どもたちはここの暮らしに馴染めるかな、仕事をここで始められるかな、お金は足りるかななど、不安は実際にはあります。でも、おかげさまで奇跡的に前に進めていますから、心配事には焦点を当てずに、自分で解決できないことは神様に「なんとかしといてね」ってお任せしています。


  • ゆる~く生きながら 夢を叶えていこう

    アレッサンドロさん:子どももいるし、もっと働かなければならないのでしょうけれど、ストレスをためるような働き方はせず、マイペースでやっていけたらと思っています。好きな絵を描く時間も持ちたいですね。
    もちろん、料理には集中して取り組みますが、何事も今を楽しみながら。自分を大切にすることで家族にも人にも優しくできると信じています。

    しおりさん:今は、住居、畑、加工場など、ここで暮らしていくための基礎を手に入れたばかりです。ここをベースに、多可町の方はじめ、買いに来てくださる人のご希望にそったもの、みんなの食べたいものを探って作って、おいしさと喜びを皆さんと共有していきたいです。
    お店の名前は「楽(GAKU)」と決めました。ロゴマークをあれこれ考えている最中です。

    私、ここに来て、ガーデニングが好きだと気づきました。これまでは春は花粉がツライ季節でしかありませんでしたが、よもぎ、タラの芽、筍などが顔を出すと、春が楽しいと思えるようにもなりました。イタリアで学んだ植物療法を、庭で育てるハーブを活用して実践していきたいですし、イタリア語の翻訳もライフワークとして続けていきたいと思っています。

    それなりの普通の幸せを求めながら、誰と競争することなく、気負わずゆるく多可町でそのときそのときを楽しんでいきます。