VOL. 17

平田 剛崇さん&明花莉さん

地区:八千代区下三原

ボランティア団体による古民家改修ワークショップに参加されたことがきっかけで多可町を気に入り、八千代区下三原の古民家に越してこられた平田さん夫妻。「自分たちで家をきれいに直す代わりに格安の家賃で借りる」という、いわゆるDIY賃貸というかたちで契約をして住んでおられます。
夫の剛崇(よしたか)さんは画家としても活動中で、小さなキャンバスに個性的な野菜や生き物たちを描いていて、多可町に越して来てから何度か個展もされています。妻の明花莉(あかり)さんはパートで働きながらミラー刺繍を中心としたアクセサリーを制作。「AKARIYA」という屋号で販売も行っています。

剛崇さん(画家)
明花莉さん(アルバイト)

平田剛崇

https://www.instagram.com/hirata_shota/

  • それぞれの生い立ち・多可町との縁

    剛崇さん:生まれは兵庫県・赤穂の北のほうにある上郡町というところで、姉と妹がいるので3人きょうだいの真ん中です。父親が婿養子だったんで母方の祖父母の家に住んでいたんですが、両親が共働きだったので祖父母に育ててもらったという感じです。それが今の生活にも繋がっているんじゃないかなと思います。

    母は保母さんだったので昔からよく絵本などを読んでもらいましたし、木のおもちゃと共に育ちました。僕たちの世代はもうみんなゲームの時代だったんですけど、母親がゲームは子どもには良くないという教育方針だったので、僕の家にはゲームはなかったです。でもやっぱり子どもですから、超合金のおもちゃとかゲームに憧れてましたね。小さい頃から絵本美術館に連れて行ってもらったり、絵本を読んでもらったっていうのは今の自分のバックボーンになっているのかなと思いますので、今では母に感謝しています。
    絵を描くのは子どもの頃から好きで、紙がなかったら絵本の白紙の部分なんかに描いていたりしていました。でも、絵の授業はあまり好きじゃなかったですよ。人を描くのが好きじゃなかったというのもあるし、課題を出されるのも嫌だったんですよね。漫画とか絵とかを模写するのは得意で、よく描いていました。空想の世界を見るのが好きで、NHKのアニメーション番組とかもボーッと見るのが好きでした。

    明花莉さん:私が生まれたのは多可赤十字病院なんですけど、育ったのは相生市です。父の実家は多可町の中区牧野にあって、母の実家は中区茂利にあるのでゆかりがないわけではないんですが、春休みとお盆・お正月に帰っていただけなので「両親の実家のある場所…」っていうぐらいの感覚でしたね。高校生くらいまでは、年に3、4回多可町に帰ってきていました。
    父はサラリーマンで母は私が中学生くらいまでは専業主婦でしたが、その後はパートに出たりしていましたね。子どもの頃は歌を歌ったり踊ったりするのが好きな子でした。室内遊びが苦手で外で遊ぶのが好きだったので、いつの間にかいなくなってよく先生を困らせました。小学生のときはトールペイントと手芸と料理のクラブ活動をしていて、これは手先が器用だった母の影響もあると思うんですけど、好きというよりもただの好奇心でやっていた感じです。
    中学2年生まで相生に住んでいたんですけど、社宅でした。母が、「自分の家が欲しいな〜」とよく言っていたのを覚えています。父が仕事の関係で出張に行ったりすることが多かったので、新幹線が停まる相生駅が便利だったんじゃないかなと思います。

    剛崇さん:美術の教科書を見るのがとても楽しかったので中学の頃にいろんな時代の画家や作品の名前を覚えました。高校生になって絵を描くことが本格的に好きになって、美術部で油絵を始めたんです。模写からちょっとオリジナルなものを描くようになって、みんなに「いいね」って言ってもらっていたんですけど、絵に集中するあまり遅刻が多くなって、そこから学校に行くのが嫌になってきて1年で退学しました。
    そこから空白の2年間が始まったんですけど、絵では大人相手のコンクールで入選とかもしていたんですよ。今のスタイルになるまでにはちょっと時間がかかったんですけど、その当時は奈良美智とか村上隆とかが全盛期だったので、ポップアートみたいなイメージで描いてました。上郡にアトリエがあったのでそこに通っていたんですが、少し行き詰まってきて姫路YMCAという通信制の高等学校に18歳のときから通い始めて、21歳で高等学校卒業の資格を取得しました。そこで初めて尊敬できる先生に巡り会えて、牧師さんだったんですけど宗教とかは関係なく、倫理とかを教えてくれる先生でした。その先生に「本はやっぱり読まないとダメだね」って言われて、それまであまり読んでなかったんですけど、電車に乗っている時間を利用してエッセイから読み始めて、そのうちに漱石とか太宰とかも読むようになりました。その頃には音楽にも目覚めていて、姫路にはTSUTAYAがあったのでお昼ご飯代を節約してCDを聴いたりしてましたね。

    明花莉さん:高校を出て短期大学に入り、保育科に進みました。子どもたちと遊んだりするのが好きだったのでわりと軽い気持ちで決めたんですが、実習に行ってみて「これはちょっとやばいな…」って思いました。「私には務まらないかも…」と。持ち帰りの仕事も多くて、子どもたちと向き合っているだけじゃなくて結構デスクワークも多いんですよね。それに、子どもを思った通りに動かす心理術みたいな面もあったりで、私には向いてないなと思いました。私が小さい頃、先生の言うことをきかない子どもだったので、なんでそんなに子どもの行動を縛り付けるのかなっていう思いもあって、学校も少し行きづらくなって卒業が半年遅れました。


  • 描きたい絵と現代音楽との出会い

    剛崇さん:もともと、ちょっと社会を斜に構えて見ているところがあったんですが、ひねくれに磨きがかかったのが20歳の頃かな。僕の人生の中での、いわゆるアバンギャルドな時代に入っていって、油絵はぱったり止めちゃいました。大きな絵が描けなくなったときに、アメリカのマーク・ロスコっていう現代画家が、テレビで「絵はサイズだ」って言ってたんですね。そのときに目から鱗が落ちて、「あ、小さい絵を描こう!」って思って、そこから鉛筆で小さな絵を描き始めました。エッシャーとかが好きだったので、この頃の絵は立体的なんですよ。
    音楽も現代的なものに興味が移っていって、クラシックの前衛音楽を聴くようになりました。でも、すごくマイナーな世界なので、ほとんどの人は作曲家の名前すら知らないんですよね。武満徹でさえ、知ってる人は少ないでしょ。僕もよく分からなかったけど、聴き続けているうちにクセナキスや高橋悠治を知り、ジョン・ケイジ、スティーヴ・ライヒと僕の現代音楽との出会いが始まりました。単純にカッコいいと思ったんです。小沢征爾と武満徹との対談の本を読んだりもしました。お二人とも、すごく知性のある顔をされていますよね。それに憧れていましたね。
    京都の私立大学に受かったんですけど、そこにも馴染めませんでした。すぐに休学してしまって、京都でのバイト生活が始まりました。その頃に映画の魅力にも気づいて、「ミツバチのささやき」という映画を見たときに「すごいな!」って感激しました。普通、映画ってアクションだとか刺激があるじゃないですか。それが全然ないんです。衝撃でしたよ。それから、映画漬けの日々を送りましたね。

    そうこうしているうちに、もう就職しないとヤバいなと思い始めて、実家に帰って介護の資格を取って、24歳のときにデイサービスの施設に勤めました。そのときにも音楽で驚かされました。お年寄りたちが歌でえらく盛り上がっているんですよ。知らない音楽、軍歌とか唱歌とか明治の流行歌とか民謡とか、自分の知らない音楽だけどこんなにも人が楽しい気持ちになれるんだって思いました。歌詞とかを調べて一緒に歌ったり、方言なんかも面白くてデイサービスの仕事は刺激がありました。

    明花莉さん:私は、短大を出てからはずっとコンビニで働いていました。仕事をするのは好きですし、接客も嫌じゃないので、私に合っているんじゃないかなと思います。コンビニの仕事って、結構あれこれ一人でやらないといけないことが多いので勉強になりました。今も町内のコンビニで働いていますが、そのときの経験が役に立っています。


  • 明花莉さんとの出会い〜相生での二人の暮らし

    剛崇さん:その頃、明花莉さんは近くのコンビニで働いていたんですが、「彦坂」っていうちょっと変わった苗字だったので、一発で覚えました。それから、知り合いを介してメールでやり取りするようになりました。初めて会ったときは僕は25歳だったんですけど、彼女はまだ18歳だったんですよ。「18歳か〜」って思ったんですけど、よく考えたら僕の両親も8歳離れているし、4、5年付き合えば歳も気にならなくなるかなって思いました。
    彼女とは、2時間、3時間話していても全然苦にならないんですよ。それに僕らの年代だとアニメを見る奴はオタクって呼ばれていたのに、彼女にしたら全然普通なんですよね。ある意味カルチャーショックでした。それがおもしろくてずっと会っていましたね。
    で、一念発起して「もっとお給料のいいところに行こう!」と思って、病院付属の老健に就職しました。それで1年半ほどお金を貯めて、相生で二人で暮らすために不動産屋さん回りを始めました。

    明花莉さん:親には何も言わずに、気づいたら一緒に住んでたって感じですね。

    剛崇さん:最初のうちは、テーブルはダンボールみたいな生活でしたけどね。

    明花莉さん:私は、お付き合いをする人のタイプには、「こういう人がいい」っていう条件みたいなのがあまりなかったんです。ガールズトークで、「ああいう人がいい」とか「付き合ったらこんなことがしたい」とかいうのが苦手で、私にとっても剛崇さんは全然苦にならない人で、それがすごく重要なことだったんです。子どもの頃はすごくおしゃべりだったんですけど、あるときに度が過ぎちゃって、高校生の頃から人見知りが激しくなってしまいました。あんまり人と話すのが得意じゃくなっちゃったんですけど、剛崇さんとは全然普通にお話ができたんですよね。


  • 大切な祖父との別れから移住に至るまで

    剛崇さん:明花莉さんと暮らし始めた頃に、一緒に生活をしていた祖父の具合がどんどん悪くなっていって、寝たきりになっちゃったんですよ。祖父は、僕にとっても、家族や親戚にとってもかなり大きな存在だったんですごくショックでした。母が仕事を休んでずっと面倒をみていましたが、僕が夜勤のときに危篤の連絡がありました。休み時間に実家に帰って、そのときは持ち直しましたけど1週間ほどして亡くなったんです。虫の知らせというのか、家族全員が見守る中での逝去でした。初めて人が亡くなるのを見たのがこのときで、顔を見ているとどんどん笑顔になっていくんですよね。それを見ていたら、なんか自分のやっている仕事のことがよく分からなくなってきて…。

    一緒に暮らしていた人が亡くなったのは初めてだったし、祖父が亡くなったことで僕の中の大きなピースがひとつ欠けちゃった感じがしたんです。それからいろんな闇が見えてきちゃって、医療関係とかがもう嫌になってしまってご飯も喉を通らなくなってしまいました。自分の気持ちの行く宛てがどこにもなくて、「これは生き方を変えなきゃ」と思って、いろんな場所を探し始めたんです。そしたら、明花莉さんが「多可町はどう?」って言うので行ってみたら、すごく気に入ったんですよ。付き合うまでは多可町って知らなかったんですけど、どこから情報を得たのか今となっては忘れてしまいましたが、多可町で古民家改修のワークショップがあるっていうのを聞きつけてきて、それに参加しました。そこで、多可町の定住コンシェルジュや役場の方、ボランティアの皆さんと会ったわけなんですが、祖父が亡くなってから半年過ぎた頃でした。

    明花莉さん:私も、もう相生での生活には無理があるなと思っていました。剛崇さんが仕事に行くのもつらそうだったし、明らかに精神不安定なのが見ていて分かるんですよね。収入面での不安はありましたけど、彼がつらそうにしているのを見るのも嫌だったし、仕事を辞めて多可町で新しい生活ができたらなと思っていました。


  • 多可町の魅力と再び筆をとるまで

    剛崇さん:相談のために定住コンシェルジュのご自宅を訪ねたら、すぐにその場で下三原の区長さんに連絡してくれて、今の家を紹介してもらうことができたんです。一目見て気に入りましたね。家賃がおいくらかはまだ分からなかったんですが、「残置物の撤去や傷んでいるところの改修を自分でやってくれるなら…」ということで、格安で貸してもらえることになりました。ホントにすごいタイミングでの出会いでした。

    明花莉さん:子どもの頃に多可町に帰省したときには、おばあちゃんちから都会の家に帰るのが嫌だったんですよ。やっぱりこの環境が好きだったんでしょうね。のどかな感じというか、余計なものがないというのか。いい意味で変わらないっていうことに、安心感を抱いたのかもしれません。

    剛崇さん:電車や高速道路がないっていうのも、多可町の良いところですよね。多可町の良さを言葉にするのは難しいんですが、僕にとっても「ここだな〜」って思うんですよ。それに、八千代区だと、今、仕事でお世話になっている市川町の農園に車で10分くらいで行けるのも好都合でした。
    こっちへ越してきてから、ふとしたきっかけで「魚の絵を描いて」って頼まれました。ちょちょっと描いたら、「めっちゃいいやん!」て言ってくれて、またキャンバスに絵を描きたいなって思い始めたんです。ちょうどその頃、八千代に絵を描いている子がいて、家に行ったらアクリルの絵がいっぱい飾ってあったんですよ。それで、油絵は面倒くさいけどアクリルガッシュのあのマットな感じがいいな〜って思いました。祖父の法事で実家に帰ったときに1枚だけキャンバスを持って帰ってきていたので、アクリル絵の具で魚の絵を描いてそれをfacebookに投稿したらすごく反響が良かったんです。15年ぶりにキャンバスに絵を描いて手応えを感じたので、安い板を買ってきて3ヶ月間ほど描き続けてたら結構作品が溜まってきたんです。そこで、知り合いのギャラリーに頼んで個展をやらせてもらうことになりました。会場で色んな人との繋がりが出来て今に至ってるんですけど、今後も個展をすることがすでにいくつか決まっています。

    明花莉さん:こっちに来て1年4ヶ月ほどですけど、最初は不安もありました。ここは結構家が密集しているので、近所の人がどんな方だろうとか、移住して失敗した人の話とかが耳に入ってきたりして、田舎といえば閉鎖的というかよそ者を受け付けないというイメージが頭の中にあったんですけど、お向いの方がとても良くして下さいます。本当に良いところに来れたなと思っています。今、コンビニで働いてるんですけど、皆いい人ばかりだし、お客さんも嫌な人は全然いないですね。ここの地域の人たちは、穏やかな方が多いように思います。

    剛崇さん:消防団に入ったのも良かったですね。最初は月に2回も3回も飲み会があったりするのかな…っていうネガティブなイメージだったんですけど全然そんなこともなくて、付かず離れずでOBさんも皆いい人たちばかりです。消防団で旅行にも行きましたし、多可町に住んでいる絵描きさんとのコネクションもできました。多可町の魅力は一人ひとりの人なんじゃないかと思いますね。個人個人を見て、おもしろいな〜って感じるのが多可町なんだと思います。そんな人たちが繋がっていけば、きっとこのまちはもっとおもしろくなるんじゃないかなと思います。