VOL. 13

木村 詩織 さん

地区:中区中安田

2018年春、埼玉から引っ越してこられた木村詩織さん。和紙を染めたり金銀砂子を蒔いたりする装飾料紙の世界から、ホテルや飲食店の装飾建材などへと制作の幅を広げ、独立して5年。自らの工房を探して多可町に来られました。
拠点は多可で手に入れた元播州織の工房付きのお家。大判の仕事の受注も増え、ますます忙しくなったそうです。長年の相棒である亀の「丸太郎」、猫の「ちまき」と「へちま」、新しく仲間に加わった甲斐犬の「もぐ」と一緒に生活をしながら、全国を飛び回っておられます。(H31.03.01)

装飾料紙 鑑屋(そうしょくりょうし かがみや)代表。砂子師、仮名料紙職人

装飾料紙 鑑屋(そうしょくりょうし かがみや) 

https://www.kagamiya.jp/

  • 東京での生活

     私は、東京の世田谷区二子玉川というところで25歳ぐらいまで住んでいました。大学にも自宅から通っていたので、独立と同時に埼玉に行くまではずっと東京で育ちました。
     と言っても、当時の世田谷は東京のチベットと呼ばれるくらいの田舎でしたので、家の周りは畑しかありませんでした。2歳下に妹がいるのですが、一緒に多摩川沿いの土手をそりで滑り降りたり、魚獲りや木苺摘みなど、自然の中で遊ぶのが好きな子どもだったようです。
     両親は、私が3、4歳ぐらいのときに独立してDTPのオペレーターをしていました。英語が話せたので海外向けのパンフレットやマニュアルなども手がけていて、当時はまだ珍しかったアップルコンピュータを導入していました。今とは全然違って、モノクロで小さな箱のようなコンピュータでした。
     ずっと家にいて徹夜が多い仕事だったので、親子ともに朝起きれなくて、学校によく遅刻していました。「木村さん家はどうなっているの?」と先生に問われるような家でした。なので、親が勤めに出るという感覚がよくわからずに育ちました。いつも家に誰か来て打ち合わせなどをしていたので、そういった働き方が今の自分の仕事とも繋がっているのかもしれません。


  • 勉強をする意味に気づく

     絵はもともと好きでしたし、土手の植物を採って図鑑で調べて絵に描いて夏休みの宿題などにしていたので、研究するというのが好きな子どもでした。我が家は、いわゆるおもちゃは買ってくれないけれど、代わりに図鑑とか画材はどんどん買ってくれる。ゲームはMacでしかしたことがないというちょっと変わった環境だったので、友達と話が合わないんですよね…。図工は好きだったんですが、小学校のときは図工の先生が嫌いでした。無理矢理絵を変えちゃうような先生だったんです。
     中学生の頃はとにかく頭が悪くて、その日のことしか考えていないような子どもでした。美術部だったんですけど、あまり積極的な部ではなかったので、放課後は川で遊んでいましたね。
     ぼーっと毎日好きなことだけをして過ごしていたら、3年生のときにこれはまずいということで先生に呼び出されました。みんな塾に行ったりして一生懸命頑張っていたけど、私は何のためにテストがあるのかも「受験がある」っていうことも分からなかったですし、皆が何のためにそんなに必死になっているのかもよく分かりませんでした。
     さすがに自分でもこのままじゃダメだ!って思ったんでしょうね…焦って公文に行きはじめて、小学校1年生の課題からやり直しました。小さい子どもに混じって、数学じゃなく算数からはじめたんですが、すごくいい先生に巡り会えて頭を打ったような衝撃を覚えました。勉強の仕方やノートの取り方なども教えてもらって、学問の楽しみというものに目覚めたんです。初めて自分で学問について考えるようになって、自分はいったい何が好きなんだろう…というのが分かってきました。特に歴史や理科、物理がおもしろかったです。
     美術系は頭が良くないと入れないって言われていたので、なんとか近所の都立高校に入学できました。中学生まではオール2。数学、英語は1という悲惨な状態でしたが、高校では学年で2位になるぐらい急成長しました。それまでの私はほんとに馬鹿だったな〜と自分でも思います。

  • 親の教育方針

     両親は、いわゆる勉強ということにまったく熱心ではなくて、高校の存在とか高校入試の意味も教わらなかったので、完全に放任でした。仕事が忙しくて、基本的には「自分が好きなことをやりなさい」という姿勢でしたね。
     その代わり一日中絵を描いていても怒られないし、図鑑や化石、鉱物などの資料は買ってくれる。自分で好きなことを調べて研究していました。妹は裁縫に興味があったので道具は買ってもらって自分でなにか作っていました。例えば、私が「亀が飼いたい」って言い出したとしますよね。すると、まずなぜ亀を飼いたいのかを考えさせられるんです。生態を調べて自分で世話ができるかどうかを考えて、本当に飼えると思ったらもう一度相談しなさいという感じでした。すべてにおいて、我が家はこうで、自分でやることに責任を持たせるというか、「周りと同じようにしないといけない」とはまったく考えない親でした。ちょっと変わった教育方針だと思いますが、ずっとそれが当たり前だと思っていました。
     今の仕事をしていて親の影響がすごくあるのは感じています。まず辞典で調べて、人に聞くのは最後だと言われ続けてきましたので、自分で調べられることは念入りに調べてから行動に移しますし、素材を知るという意味でも納得がいかないままではやりたくはないんです。そういうところは、子どもの頃に培われたものだと思います。


  • 模索とバイトの日々

     高校時代は2年生まで茶道部で、軸の見方であるとか、作法などを外部から出張してきてくださっていたとても教養の深いおばあちゃん先生に教わりました。高校に離れの茶室があったので、古民家が好きになったのはその影響もあります。3年になって美術方面への進学を考えて美術部に入りました。のんびりした部だったので美術室には誰もおらず、一人でデッサンをしていました。でも、多摩美術大学卒の先生が一人と東京芸大卒の先生が二人いて、豪華な講師を独占していろいろ教えていただきました。日本画に触れるようになったのもこの頃です。
     漠然と美術の大学に行きたいという気持ちがあり、横浜美術短期大学(現在の横浜美術大学)というところに入学しました。そこは絵画科というくくりの科しかなくて油彩をやっている人がほとんどだったのですが、私自身もそのときは明確に日本画がやりたいと思っていたわけでもなく、好きな絵の傾向を勘案すると日本画かな…という認識でした。どんな画材を使って描こうと木は木だし、枝は枝だと思っていたので、特にジャンルにこだわりもなく、画材のことも知識がなかったので、まずはいろいろ自分で研究してみようと、絵画技法などもいろんなことに挑戦しました。その後、日本画をもっと勉強したくて女子美術大学に編入しました。
     親元から通ってはいましたが、費用は払えないって最初から言われていたので、奨学金を借り、学費や生活費を自分で稼いでいました。週に6日バイトをしていたので、高校の時から自分で都民税を払っていたぐらいなんです。朝の4時から7時までドーナツ屋さんでバイトをして、8時からはその向かいの寿司屋。昼に大学に行って、また夕方5時から夜9時まで寿司屋でバイトをしていましたので、疲労で体が変になりそうでした。

  • 料紙との出会い

     納得しないと次のことができないたちで、今思うと、自分は何が描きたいのか突き詰めていなかった。一方で就活とか就職って言われても自分が何をやりたいかも分かりませんでした。絵が描きたいというよりか、何かを作りたいのだと思って、とりあえず江戸小紋の染付の会社に面接に行ってみましたけど、事務員もできないし、伝統職だし、何かが違うなと感じました。
     どうしようかな…と思っているうちに、卒業になっちゃいました。アルバイトで働きすぎて考えるゆとりがなかったんですよね。バイト先のお寿司屋さんに何度も社員にならないかと誘われたのですが、そこの大将は昔美大を目指していたそうで、「寿司屋になっちゃ駄目だ!」って・・・。寿司屋も良いかもと思う反面「そうだよなー」と思っていました。
     卒業後すぐ料紙を作る会社の東京販売店にアルバイトで入りました。「料紙」というのは仮名書道用に装飾などを加えた和紙のことなんですが、言葉すら知りませんでした。ただの販売員だと思っていたら、実際には「古筆」といって昔の書家のどんな作品がどんな紙に書かれているのかを覚えないと、作家さんにおすすめできないんです。めちゃくちゃ大変でした。例えば、万葉集でも桂本や藍紙本などいろんな種類がありまして、その臨書をしようと料紙を買いに来られるので、覚えていないと話にならないんですね。見たこともないような難しい漢字が使われていることが多いので、まずは全部読み仮名をふらないと覚えられませんでした。まるで外国語みたいでしたね。「和漢朗詠集の春の歌を書きたいので、どんな紙が適しているかしら?」という相談を受けるんです。知らなくて意地悪な質問をされるお客様もいるので、打ち負かすには知識が必要だ!と思って勉強しました。バイト1週間目で知恵熱がでました。
     諸説ありますが、元々料紙の世界っていうのは、奈良時代から今の近畿地方で加工されていたようです。また昭和初期に神戸で安東聖空(あんどうせいくう)という書家が古筆かなを興したということもあります。
     バイト先の本社は姫路にあって、創業70年くらいですかね、自社工房で料紙を作っていたのですが、鳥や葉っぱの料紙下絵を描く先生と破り継ぎという加工をする先生が亡くなって、金箔を切る人も足りないから手伝って…という事態になりました。金箔なら日本画を勉強していたときに扱ったことがあるのでお店の片隅でお手伝いをするようになり、そのうちもっとこうしたら、という欲が出てきて、東京のお店でお客様の特注品を受注する傍ら姫路本社に行ったりしてました。
     学生のとき、授業が楽しくて、絵巻物などの修復の仕事も良いかなと思ったこともありましたが、国の事業なのでいろいろ制約があって、ちょっと違う気もしていました。もっと自分なりの絵柄にしたいし、制約がある中でも自分の色を出したい…でもそんな仕事って無いよな…と思っていたのですが、よく考えてみると、今自分がやっていることって修復じゃないけど伝統技術を使って新しいものを作るっていうことなので、これは天職だ!と思いました。
     ただのバイトだったのがいつの間にか職人のお手伝いをするようになって、半分店長のような感じになったんです。特注の仕事などは、お客様の仕事を直接伺い制作できたのでとても楽しかったです。2年半ほど働きましたが、当時の社長さんがお亡くなりになって、いったん会社は辞めることになりました。


  • 建材の世界を経て、独立

     次に和紙の二次加工が出来ると思って就職したのが、和紙の建材などを特注で作る会社でした。でも、料紙の方が繊細で加工の技術レベルが高い仕事でしたので、入ってすぐにいろいろと改善すべき部分に気がつきました。なので、上司に直談判をして、早々に品質を管理する役職を得て、技術、技法の指導をやっていました。金箔の商品も受注して、特注専門みたいにしていましたね。その後、企画に回って、新しい商品を作ったりデザインをしたり、展示会の出展やカタログの制作など、何でも屋さんになっていったのですが、自分でも勤め人は向いていないのかなという気もありましたし、周りも後から入ってきた年下の女子にあれこれ言われるのが嫌だったみたいで、それが「めんどくさいなー」と鬱々としてきて、それならやりたいことを自分で受けたほうが良いのかなと思うようになってきました。
     ある日「そんなに言うなら木村さん自分でやれば」というふうにいわれて、突然目が覚めたので辞めることにしました。それで、「鑑屋」という屋号で独立しました。26歳のときですね。


  • 多可町で工房を手に入れる

     ちょうど実家が引っ越すことになり、独立を機にひとり暮らしをやめて埼玉に引っ越すことになりました。料紙の会社の仕事も、建材の会社の仕事も私にしかできないお仕事をいただいていましたので、少ないながらも仕事はありました。最初は6畳一間の部屋が工房だったのですが、徹夜もあるし大きい物が作れないし、結局リビングに画材を広げて仕事をすることになったりして、家族に負担がかかるようになってしまったんです。広い所を探そうと思いましたが、東京近郊は家賃が高いので迷っていました。
     料紙の会社からお誘いもあって、どうせ探すなら縁もゆかりもない関東近県より思い切って兵庫だと思い、ネットで家を探し始めました。今の家に巡り会ったのは、建物での検索ではなくて「土地」の条件のところに「古家あり(倉庫などに使用可)」という表示でした。まずは広い工房というのが第一条件でしたので、特に「古民家」で探したわけではありません。
     姫路の会社の代表が神埼郡に住んでいるので、多可町だったら隣だしということで見に来たんです。床もブカブカでそのままでは住めるような状態じゃなかったのですが、播州織関係の元工場がついていたので、2016年の秋に購入しました。
     思ったより床下の状態も良くて、シロアリもいなかったですけども、柱が沈んでいて、建具が開かなくて。大引や根太のやり直しは大工さんに頼みました。リフォームはもともと好きだったので、床貼りやトイレの入れ替え、タイル張りなどは全部自分でやりました。まずは人が住めるようにしないといけませんでしたし、ちょうど仕事が立て込んできたときだったので、実際に引っ越して来たのは2018年の3月でした。1年半ほど、埼玉から通ってコツコツ家の改修をしたんです。今もまだまだ改修中です。


  • 集落との関わり

     都会からやって来て、何やら伝統的な仕事をしているらしいけどどんなものかわからん…ということで、近所の皆さんは興味津々でしたね。播州織や建築などで工場や元従業員さんが多いので、ものづくりに関してはとても理解があると思います。お隣のおじさん含め同じ隣保の飲ん兵衛3人組の仲間になって、大体4人で呑んでいます。先日は、区長さんも含めて9人で遠足みたいにカニを食べに行ってきました。多可町の人は皆さん陽気で、すらっと受け入れてもらったと感謝しています。
     作業場に籠もって仕事ばかりしていて、近所もなかなか散歩できず、陽にも当たらないので体に悪いと思い犬を飼い始めました。すごい速度で地域に馴染んでいると思います。お寺さんとも仲良くなって、古い物の修理を依頼されたり、近所の方が書道で使う紙の相談に来てくれたりするんです。
     埼玉に住んでいたときはベッドタウンでしたが、ちょっと不便なところでした。ネット環境が充実したので、今更どこに住んでも困らないな、と思います。
     こんな何も無いところにどうして引っ越してきたの?とよく聞かれますが、ホームセンター、コンビニ、スーパー、宅急便もあるし、車があれば十分便利な環境です。私の仕事にはなんの支障もありませんでした。なにより多可町は自然が豊かで空気も景色もとてもきれいで、1日の終わりに犬を散歩するとき、山に沈む夕焼けを見て疲れが癒やされるのがわかります。


  • これから

     最近、国立西洋美術館のモネの「睡蓮」という絵の修復の仕事に携わりました。工房でNHKの取材もあって、元の家主さんも自分のことのように一緒に喜んでくださっていました。作品の欠損した部分に和紙を使うのですが、大きな和紙を染められる工房としてうちを選んでいただけたようです。私は建材などの大判を扱うことが多いですし、この工房に来てから大きなサイズの仕事も受けられるようになって幅が広がりました。
     お客さんのご依頼という制約がある中で技法や知識を提案できて、自分の能力を発揮する仕事が好きなんです。基本的にはどんな仕事でも好きです。時間ができたらヒノキの柾目を薄く切って百人一首を作ったりしたいなとか思っていますが、私にとってみると、作ったものは作り終わった瞬間からは過去のものですので、なるべく二度と見たくないし見返したりもしないんです。細かい絵を描くのがすごく好きですし、上級な工芸品が好きです。上品さを保ちつつ、もっともっといろいろな仕事に携わっていきたいと思っています。