VOL. 20
大橋 佑輝さん
地区:加美区山野部
林業を目指し、林業に就き、林業を極めていく──。高校生の頃に芽生えた夢にまっすぐ歩み、林業に生きると決めた若き大橋さん。田舎好き・自然好きなのは子どもの頃から。真面目で勤勉な青年が多可町にたどり着くまでのゆるぎない志と道のり、今ここで味わう充実、そしてふくらむ幸せな夢を存分に語っていただきました。
佑輝さん(北はりま森林組合勤務)
北はりま森林組合
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都会生まれの都会育ち。でも筋金入りの田舎好き
僕は三人きょうだいの真ん中に生まれました。生まれも育ちも大阪の中央区谷町四丁目。
20歳までそんな都会の「谷四」で過ごしました。子どもの頃、おばあちゃんに散歩によく連れて行ってもらったのは大阪城です。家から歩いて10分の距離でした。
ベビーカーから抜け出して知らない子と遊んだり、人見知りをせずにみんなにニコニコしとった子どもで、周りからすごくかわいがられて育ったようです。
小学校に上がると、いろいろなことに興味がわき、好きなことが次々にできていきました。
まず、図工が好きで、絵を描くのも工作も得意でした。運動も大好きになって、よく走り回っていましたね。学校から帰ったらすぐに遊びに出て、公園で鬼ごっこやドッジボールをしたり。あと、サッカーも好きで習っていました。
小学生の頃から毎年夏は家族や親せきと大勢でひいおばあちゃんの家に遊びに行っていました。ひいおばあちゃんは鹿児島の南さつまというところに住んでいて、そこはすっごい田舎で、山あり、田んぼあり、川も海もあって、自然が豊か。そこの印象が強くて田舎に大きな興味を持つようになり、田舎が大好きな子になっていったんです。
小学生時代は鹿児島に行くのはただ楽しかったけれど、中学になる頃には『将来はひいおばあちゃんのこの家に住みたい』と考えるようにもなりました。結局は叶いませんでしたけれど…。
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田舎で暮らし、林業に就きたい。高校生で見えた未来図
高校は阿倍野の第二工芸高等学校に行きました。ここは4年制の美術系定時制高校で、実は両親の母校でもあるんです。デザイン科、インテリア科などがあって、インテリア科では金具を使わず木組み工法で家具を作る授業があり、それを学びたくてそこへ。でも何より、“お父さんとお母さんが知り合った学校”だから自分もそこに行きたいと思ったのが大きかったです。
子どもの頃から走るのが好きだったので高校では部活で陸上をしていたんですけど、昼間はボクシングを習いにも行っていました。父が昔、プロボクサーをやっていたらしくて、ボクシングとはどういうものかを知りたかったんです。ジムに通うにもお金がかかるから、朝はホームセンターでバイトをして、昼間はボクシング、夕方からは高校に行って部活もする。4年間ずっとそんな流れでした。
ホームセンターのバイトでは「木材・資材」売り場を担当していました。たまたまではなく、望んでその仕事をさせてもらっていました。木工が好きですから、その材料となる「木」には元々興味があったんです。
木工といえば、高校で2年連続、木工作品で「大阪府知事賞」をいただきました。「輝木(かがやき)」とタイトルを付けた照明と、「ちっちゃいす」という椅子。先生には「売れるぞ」と褒められました。うれしかったですね。
子どもの頃からの田舎好きもますます高じていきました。高1か高2のときに、母が「近くに田舎暮らしを支援してくれるところがあるんやて」と、船場のあたりにそうしたセンターがあることを教えてくれて、僕はそこに通うようになりました。
和歌山県を担当している人が「もしよかったら『田舎暮らし体験ツアー』に参加しませんか?」と誘ってくれて、那智勝浦の「色川」という村に3日間滞在したことがあるんです。色川は田舎というより、ホンマの山奥。ものすごい田舎やけど、子どもたちは思ったより結構いて、僕は子どもが好きなんで一緒に遊んで本当に楽しかったです。村の人たちはすごく歓迎してくれて、そのことに自分も感動しました。
そして、「林業」というものに出会い、「林業」を将来の夢にすえたのも、実はここでの滞在がきっかけです。
高校で家具を作っていたこともあって「この木ってどこから来てるんやろ?」と、木への興味、林業への興味が自分の中にはありました。
色川は山の中やから、林業に詳しい人が多くいます。「林業ってどんな仕事ですか?」と聞いたその質問に「環境のことを考えながらがんばっていく仕事なんやで」と教えてくれて、「あぁ、自分が手にしている木はこういう人らとつながっているんやな」と、また感動したんです。
林業は自然豊かなところでしかできない仕事です。田舎暮らしにはもってこいの職業。田舎で暮らすなら林業をしよう!と、心に誓ったのはこのときでした。
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運動も勉強も完全燃焼。悔いなく過ごした高校時代
高校は4年制でしたが、ほかの学校に午前中に規定数通って必要単位を取れば3年で卒業できる制度がありました。自分はそれを選択して、3年間で卒業資格を得たのですが、高校が楽しすぎて「来年もここに通いたい!」って無茶を言ったんです(笑)。
というのも陸上部で、1年目に初めて出た大阪大会の3000メートル障害物競走で定時制・通信制部門で優勝。でも全国大会(東京)では予選落ち。2年目、同種目大阪大会優勝、全国大会で入賞の一歩手前。3年目は全国大会でついに7位入賞! 来年こそは「メダル」だ!というところまで来ていたから。
3年で卒業できる生徒が4年生になるのは異例だそうです。でも、担任の先生も陸上部の顧問も尽力してくれて、4年目も特例として残れることになりました。
4年目は気合いを入れて陸上に専念しました。最後の全国は一番いい成績に。なんと! メダルには一歩届かず4位でした…(笑)。でもいろんな人の支えを感じて、メダル以上のものがとれたかなって思います。
全国大会を終えたら就職活動を始めると決めていました。以前から学校には「林業がしたい」と相談をしていたのですが、そんな自分に先生がうれしいニュースを教えてくれたんです。「来年、兵庫に県立の森林大学校という専修学校が設立されるんやで」って。「ホンマですか!?」。うれしい驚きいっぱいで聞き返しました。
3年で卒業していたら巡り合わなかった入学のチャンスです。すべてがうまくいった気がしました。運のよさに感謝しながら森林大学校のオープンキャンパスに出向きました。
森林大学校は林業を中心に学んでいく学校ですが、「林業大学」ではありません。その名の通り「森林」全般を学ぶところです。樹木医を目指す人も、木の加工を学びたい人もやってきます。自分も「木について」ちょっと知ってから林業に就きたいと、ここで学ぶと決めました。学校は兵庫県の宍粟市にあります。2年制です。
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インターンシップで多可町へ
入学してみたら、林業は学ぶほどに深いと知りました。熊本から来た、すごく勉強熱心な子がクラスにいて、その子と一緒に自分も猛勉強しました。
あるとき二人で「奈良の吉野の林業」を見学しに行こうと決めて、吉野の中でも歴史のある事業体の一番上の方に挨拶にいくことにたんです。交渉の仕方も知らない学生が、熱意だけで押し切って見学の許可を得たようなもの。そのトップの方は、会ってみたら全国の林業従事者から尊敬されるようなすごい人でした。「作業道」と言って、山に機械や車を入れるためにつける道があるんですが、その作業道づくりのエキスパートだったんです。
下手な作業道をつけてしまうと山が崩れる原因になります。逆にいい形で壊れにくい作業道がつくれたら、作業がスムーズになるだけでなく、水などの侵害を防ぎ、山の環境もよくなります。
「将来は作業道をつくれる人になりたい」と強く思いました。2年生になり、作業道について知識を深めていたら、作業道づくりに熱心な方が多可町の「北はりま森林組合」に存在すると知って、インターンシップはそこに行きたいと志願しました。なんと、吉野のエキスパートの方の一番弟子ともいえる人だったんです。2週間お世話になり、「この人についていこう!」と決めました。卒業後の進路はこうして決まりました。
大学生活はとても楽しかったです。暮らしていたのは同じ大学の人とのシェアハウスでウッドデッキがある家。揖保川の向かいに山がドーン!と見えていてその山には紅葉する木ばかりが生えていました。黄色、赤、緑、カラフルな秋は本当にきれいで自然のよさに浸りました。
2年目には海外研修がありました。オーストリアで“最先端の林業”を見て、ドイツ、イタリアを回ってきました。日本にはボコボコした山が多いけれど、向こうの山はスーッとなだらかだから機械が入りやすい。木も日本とは違う。スケールの違う林業を見ることができました。
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多可町は人と自然が共存する町
20歳までずっと住んでいたから、都会の風景は当たり前に自分の周りにありました。ゲームセンターやカラオケに行って遊ぶのも楽しかったし、都会は都会で好きですね。でもバイト代で買ったクロスバイクに乗って、街を離れて遠くまで出かけることもよくしていました。奈良まで温泉に入りに行くんです。街の景色から緑広がる田舎の景色に変わっていくのを見るのが大好き。自分の好きな色も緑。持ち物は昔から緑のものばっかり(笑)。
大学で宍粟市にいた頃も、そして今も「都会の人がこんな田舎に来て大丈夫?」とよく聞かれます。大丈夫です(笑)。自分は根っからの田舎好きだし、スーパーが1軒あれば十分生活できます。
大学を卒業する前に車の免許を取って、多可町に来てからは車に乗るようになりました。大阪にいた頃は電車と歩きと自転車でどこへでも行けましたが、ここではそうはいかないから。車に乗れば、それこそゲームセンターやカラオケにだって行けます。今はそういうところに行きたいとは思わないけれど…。
休みの日にはよく「コーヒー豆」を買いに車で出かけます。ネットで調べて、次はこの店に行こうと決めて出かけるんです。自分で豆を挽いて、汲んできた多可町のおいしい湧き水「松か井の水」で丁寧に一杯を淹れます。毎日仕事から帰ったらまずコーヒー。読書したりギターを弾いたりしてからしっかり手をかけて料理を作る。これが日課です。
多可町に移住して来たのは平成31年の3月。山野部という地域に一軒家を借りて住んでいます。森林組合の人がここの家主さんと知り合いで用意してくれた家で、一人で暮らすには広すぎますが、今付き合っている、大学の一期下の彼女とゆくゆくは一緒に暮らせたらいいなと思っています。
そうなったらDIYで改修工事をして、家具も自作して、彼女と二人で庭で野菜を育てて、いずれ子どもができたら、その子が手に取るようなおもちゃは木で手作りしてあげたいんです。
山野部の皆さんはとてもウエルカムな雰囲気で自分を迎えてくれました。今年は新型コロナウイルスでいろんな行事が取りやめになってしまったけれど、初めて来た年に見た祭りや秋の花火大会はすごく印象に残るものでした。祭りは、スーツ姿で神輿を担ぐ独特のスタイル。ここは山なので、花火は山バックに打ち上げられ、ど迫力の音が体に響きます。そうした行事にこれからは自分が積極的に参加していけたら幸せですね。
仕事は、念願だった北はりま森林組合で現場作業をさせてもらっています。山に入って木を切って、それを搬出する仕事。どの木を切ったらいい山になるかを考えて行う間伐です。組合の人もよくしてくれて、仕事にはだいぶ慣れて楽しいと言えるようになりました。
手入れがされていない山は、光が入らないので真っ暗で寂しく、地面には落ち葉しかありません。そういう林も、たとえば1本木を切れば、そこにできた隙間に日が差し、風が通ります。自分のエゴかもしれないけれど、山が喜んでいるように感じる瞬間です。
そうやって管理をしていくと、森はほどよい木漏れ日を得て生き生きしていきます。自然の匂い、鳥のさえずり、ふかふかの踏み心地…、五感で得られるこういった感覚がとても好きで、休憩していても、ウグイスやトンビの声に励まされているようなやわらかい気持ちになるんです。
今の生活はものすごく充実しています。これまで描いてきたこと、学んできたことが全てここ多可町でのこの暮らしにつながっているように思っています。
中学の頃から1日も欠かさずに日記をつけていて今43冊目。これからは多可町での毎日を何冊も何冊も日記に綴り続けていくことになると思います。