VOL. 21
坂賀 信夫さん&廣子さん
地区:八千代区大和
多可町八千代区にある「ブルーメンやまと」という滞在型市民農園で、花を植えることから始まった坂賀さん夫妻の多可町ライフ。無農薬・有機栽培の大御所「井原農」さんの本に出会って野菜作りに目覚め、もっと広い農地を周辺に借りていくうちに空き家になっていた今の家を紹介されて、本格的に移住して来ました。4人の子どもに囲まれて、家族みんなで大変な時期を乗り越えてこられた坂賀さん夫妻のこれまでの歩みと今の生活について伺いました。
信夫さん
廣子さん
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対象的な二人
信夫さん:生まれは大阪市港区です。両親を早くに亡くしてましてね。母親は僕が高校1年生のとき、父親は20歳のときに亡くなりました。妹がいたので僕が父親代わりみたいな感じ、大阪・九条の叔母宅に身を寄せました。子どもの頃はおとなしくて静かな子で、友達と外で遊んだりはしていましたがあまり目立たない感じでしたね。
工業高校に進んで建築の勉強をしていたんですが、その頃はデザインや建築の図面をずっと描いていて、とにかく「たくさん描けば何か見つかるはずだ」と思っていたんです。まだ高校生だったんですが、「クラインガルテン」という珍しい名称の農地賃借制度を耳にして、当時からなんとなく興味は持っていたんです。
高校を出てすぐに赤松・管野建築設計事務所に就職して、勤めながら夜間の短期大学に通いました。大手だったんですけど父親が亡くなった頃に辞めて、次は泉沢建築設計事務所で勤めました。そこでずいぶん長く働きましたね。一級建築士の資格を持っていて、主にショッピングセンターの設計をやっていました。やり甲斐のある仕事でしたが、考えることが多いのでなかなかしんどかったですね。
廣子さん:私は兵庫県の伊丹で生まれ育ちました。夫とは対照的に、男の子と一緒に走り回って、籾殻の中にば~んと突っ込んで遊ぶようなお転婆さんでしたね。その反面、いつも姉について回っていたような子どもだったので、誰かがリーダーシップを取ってくれたらそれに付いて行くタイプでした。
小学校のときはクラシックバレエを習っていました。その時代を考えると、きっと裕福な家庭だったんだなと思います。父はいわゆる田舎の気のいい人で、母はとてもきれいでハイカラな人だったんですが、我儘でしたね。6年生のときに、子どもなりに自分の才能の限界を感じてバレエはやめて、中学・高校ではバレーボール部に入りました。高校は進学校でしたが、私は就職組だったので特殊科目を取ることができて、1年のときは習字、2年ではもっとおもしろそうな工芸を選択して、木彫に夢中になりました。
高校を卒業して住友生命に就職したんですけど、勤務が16時までだったので、仕事が終わったあとに習い事ができたんですよ。なので、やりたかった木彫も習いに行ったし、お料理、お茶、お花なんかも習っていました。会社でも剣道部に入って、部活の後にみんなで飲みに行くのが楽しみでした。それから、三菱電機の男性社員と木彫教室の生徒で「スカルプターズ」というバンドを組んで、バックコーラスを担当したりもしてましたよ。今では考えられないかもしれませんけど、当時の会社はいろいろ部活があってとても活気がありました。
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ジャガイモみたいな人が良かったんだけど…
信夫さん:妻と知り合ったきっかけですが、夜学に通っていたときの友達と妻の幼友達が知り合いだったんで、紹介されたんです。
廣子さん:姉が結婚したときに両親がすごく落ち込んだので、「私は30歳までは結婚せずに家にいるから…」って両親に言ってたんですよ。そしたら、それを心配した母が私の幼友達に「誰かいい人いないかしら」って相談したようです。そして紹介されたのが夫だったんです。
信夫さん:初めて会ったのは、妻のバンドの演奏会でした。カッコよく見せるために、勇んで白のポロシャツ、白のズボン、白のベルトで行ったんです。
廣子さん:ビシっと決めている彼を見て、「あ、ないな…」って思ったんです。というのも、会社ではスーツ姿の硬い格好の男性ばかり普段から見ていたでしょ。だから、ジャガイモみたいに無骨で飾らない人が好きだったんですよ。
信夫さん:僕は最初に会ったときから彼女を気に入ったので、早速、次の日に会社に電話してデートに誘いました。
廣子さん:私は、残念ながら「断らなあかん…」と思ってたんですけど、よう断らん性格で、電話で誘われたときは、つい「はい」って返事してしまったんです。それが25歳のときです。
信夫さん:2回目のデートのときには、ピンクのスーツを着て行きました。
廣子さん:もう、びっくりでしたよ!でも、そのピンクが私には新鮮だったんです。会社では、紺やらグレーのスーツばっかりでしょ。彼にはとても似合っていて、「あ!」って思いましたね。
ちょうどそのとき、仲間から「南こうせつのチケットを取りに行ってほしい」と頼まれていたんです。でも、チケットなんて取ったことがないので場所もよくわからなくて、彼に連れて行って頼んだらタッタッターって連れて行ってくれて、そんな彼を見て「へえ~、頼もしい!」と思いましたね。
用事が済んだら、「食事は和食がいいですか、洋食がいいですか?」って聞いてくれたんです。「なんでもいいです」って答えたら、「じゃあ、ステーキを食べに行きましょう」って。私はナイフやフォークのマナーに自信がないって伝えたら、「大丈夫です」と言ってそのまま連れて行ってくれたのですが、お店に着いたら店員さんに「お箸をお願いします」って頼んでくれたんです。その気遣いが嬉しかったですね。胸がいっぱいでした。子どもの頃から、リーダーシップを取ってくれたらそれに付いて行くタイプ…というのは変わらなかったみたいですね。
信夫さん:彼女は初デートでも大ジョッキのビールを飲むし、「元気のいい子やな~」と思いました。それが6月のことで、その年の8月には結婚を決めました。
廣子さん:初めて実家に挨拶に来てくれたんですけど、そのとき、手土産一つ持たずに手ぶらで来たんですよ。母はちょっと怪訝な顔をしてましたけど、父はそんな彼のことを気に入ってくれたんです。父も、自分もそうだったって…。男が相手の家に初めて行くときは、頭の中は挨拶のことでいっぱいで他のことなんか考えられないもんだって。
信夫さん:結婚は決めたんですけど、それから僕が遠方に長期出張になってしまって、結婚式は翌年の2月になりました。
廣子さん:離れてる間は、毎日手紙か葉書を書いてましたね。知らない土地に行って、一人の部屋に帰ってきたときに便りがあったら嬉しいだろうなと思って。でも、勤務先が田舎だったんで毎日は届かなかったんですよ。結局、まとめて届いていたらしいです。
信夫さん:それでも嬉しかったですね。楽しみにしていました。
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小さな団地で6人生活
廣子さん:結婚してからは、大阪の服部にある住宅供給公社の団地に住んでいました。エレベーターなしの4階の部屋で、お風呂も無かったので目の前にある銭湯に行っていました。2Kで部屋も狭くて、ベランダがなかったので洗濯物は屋上に干しに行ってましたよ。
信夫さん:4年8ヶ月の間に子どもが4人できたので、そこに6人で住んでたんですよ。もう、ぎゅうぎゅうでしたね。でも、不思議と子どもも僕たちも引っ越したいとか、広い部屋に住みたいとかは思わなかったですね。
廣子さん:もう家は保育所状態。楽しかったけど大変でしたね。若かったからできたんだと思います。お風呂がないもんだから、お給料が出たらまず銭湯の回数券を買いました。食費はやりくりできるけど、銭湯代はそういうわけにはいかないでしょ。
信夫さん:妻のお腹が大きいと階段の上り下りとか大変だし、身重で子どもをお風呂に入れるのも大変なので、職場では無駄口も叩かず一心不乱に集中して仕事をやって、できるだけ早く家に帰ってましたね。子どもは2人で育てるもんだと思っていましたから。目標は頑固親父。あるとき、私の一存でテレビを見ることをやめました。
廣子さん:それでも、子どもたちは文句は言わなかったですよ。別段不便は感じていなかったようです。テレビがないおかげで、家族でよく話をしましたね。
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会社が倒産するかも…
信夫さん:子どもたちもすくすく育ってくれて、そろそろ定年が近くなってきた頃に、会社が倒産するかもしれない…という状態になりました。僕は役職が付いていたので役員報酬が出なくなってしまって、収入がゼロの月もあったり、遅れて5万、10万とかもらえるときもありましたが、大変な状態になってしまいました。
廣子さん:それで慌てて私がパートに出ました。子どもたちと主人は、家で一つの机を囲んで内職してましたね。
信夫さん:小さな車の部品を作る内職だったんですけど、子どもたちはみんな器用だったので楽しんでやってましたよ。家族揃って結構早くやるもんだから、時給1,000円くらいにはなっていました。
廣子さん:自分がやった分のお給料は、大人も子どもも自分のおこづかいだったんです。だから夫も一生懸命やってましたね。大きなテーブルを囲んでワイワイ楽しくやっていたんで、子どもたちは貧しいとか思ったことはなかったんじゃないかなと思います。
兄妹が多かったんですけど、年上年下関係なくみんな平等に育てました。子どもたちもそれは分かっていて、誰か一人が飴をもらってもちゃんと持って帰ってきて、金槌で割ってみんなで食べたりしていました。銭湯のジュースも1本を4人で分けて飲むんですが、最初の子は気を使って少しずつ飲むので、結局、最後の子が一番たくさん残っているという感じでした。兄妹同士で気配りをしていたんだと思います。
信夫さん:子どもたちがそれぞれ25歳くらいになって巣立って行くまで、ずっとそんな感じの生活が続きました。今では孫もたくさんできて、全員集まると大家族ですよ。
廣子さん:途中、倒産以外にも我が家にとっての大事件がありました。まだ子どもが小さい頃でしたけど、夫が保証人になっていた別の人の事業が失敗して、肩代わりのために裁判所から通知は来るし、ドラマみたいに自宅に差し押さえにも来ましたよ。お金の件では苦労もしましたけど、嫌なことや暗いことはぜ~んぶ忘れてますね。
信夫さん:僕の勤めてた会社も結局は倒産したんですけど、それが今の生活に繋がってるんですよね。倒産というのが無かったら、きっとずっと仕事をしていたでしょうね。ふっと時間ができたその頃に、高校生のときになんとなく思い描いていたクラインガルテンへの思いが湧いてきたんです。
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夢のクラインガルテンへ!
廣子さん:結婚したときからクラインガルテンのことは夫から聞いていて、テレビなんかで見てたりはしていたんですけど、子育てに必死だったので「この人は、将来こういうことやりたいねんな~」くらいにしか思ってませんでした。夫は、子どもたちには早くから「オレは、仕事は60歳までしかしないから、大学へ行きたかったら自力で行きなさい」と宣言してました。
信夫さん:年金で生活費の安い海外で暮らすことも考えたんですけど、資金的なこともあってそれは断念しました。
あちこちクラインガルテンを探して、やっと多可町の「フロイデン八千代」を見つけて申し込んだんですけど、人気がすごくて100人待ち!そしたら、たまたま「ブルーメンやまと」に空きが出たという連絡が入ってきたんです。すぐに多可町に来て申し込みました。2006年のことです。そのときは野菜を作ろうという気はあまりなくて花を植えてましたが、ちょっと野菜を作り出したらすっかりハマってしまって。
廣子さん:ちょうどその頃、私の父が亡くなって母が独りになって弱ってしまったんです。それで、母の住んでいた伊丹の家を建て替えて、狭い団地から家族で移り住みました。私が介護していたんですが、24時間の世話ですからしんどかったんですね。
そんな疲れた私の癒しの場所に、「ブルーメンやまと」がぴったりだったんです。デイサービスに母を送り出したら車で飛んで出て、多可町に通いました。でも、伊丹の家の建替費の支払いと「ブルーメンやまと」の賃料の支払いと二重になったので、スコップ一つ買えませんでした。だから柄の腐ったスコップを拾ってきて、それを直してスコップ一つから野菜づくりを始めました。
信夫さん:お金が無いから虫除けのシートも買えないし、車も手放していたので長男のお嫁さんの車を借りて多可町まで移動していました。僕の墓の土地も売って、ホントすっからかんでしたが、それでもここに来たかったんです。
廣子さん:その頃は、まだ移住なんて考えてなかったですね。私はただ、母の介護から離れてほっとできる場所が欲しかったんです。
信夫さん:ところが野菜を作り出したら上手くできたもんですから、楽しくなってもっと広い土地を借りたくなって、どんどん借りてるうちに今度は田んぼも借りることになりました。集落の区長さんに教えてもらいながら始めたんですが、水の管理ができなくてヒエがたくさん生えてしまい、2週間くらい朝昼晩かけて全部手で抜きました。そんなときでも、朝日が綺麗で吹き抜ける風が気持ち良くて、「あ〜、楽しい」って感じましたね。
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もう、ここに移住してきたらいいのに!
廣子さん:そのヒエ抜きを最後までやり通したことで、近所の方から信頼されたんです。ここに来るにも、全然違和感を持たれなかったですね。「そんだけ一生懸命やるんやったら、もうここに移住して来たらいいのに!」って言われてました。
信夫さん:畑も田んぼも借りてやってましたから作物がたくさんできるでしょ。だからそれを置くための倉庫が欲しくて、はじめは倉庫を探してたんです。そしたら、区長さんから「空き家が出たけど、どうや」と言って勧められたのがこの家でした。それで、2012年6月に「ブルーメンやまと」からこの家に移って来ました。
廣子さん:その頃には母も見送っていましたし、伊丹から動ける状態だったんです。
信夫さん:多可町には、都会にないものが全部ありますよね。隣近所の人とは仲良くなれるし、静かだし、僕たちには良いことばっかりなんですよ。ひとつ心配なのは、お互いに歳をとったときに車の運転をどうするかっていうことだけで、あとは全部OKです。
今は、畑の他に三味線をやったり木工をしたり、いろいろやりたいことが増えてきて結構忙しいんですよ。綱渡り人生とよく言われますけど、ホント毎日が楽しいです。こんな大変な人生ですけど、夫婦喧嘩もしたことないですし。
廣子さん:2020年の5月から許可も取って、惣菜の販売も始めたんですよ。もちろん材料となる野菜等も一から手作りです。近所のおばあちゃんたちに安く提供して喜んでもらいたいというのが発端でしたが、今は多可町の特産品にも認定してもらっています。たくさん売れるわけではないけど、やっぱり買ってくれる人がいるのは嬉しいですね。老後の楽しみとして続けていけたらいいなと思っています。
信夫さん:目標は100歳を過ぎても畑に出ることです。ご近所にもそういった高齢者の方がおられるので、僕たちの目標なんです。ここでそうやって生きていきたいですね。
廣子さん:住めば都で、一生懸命頑張っているとちゃんと周りの人たちが見てくれているんですよね。そして助けてくれる。今度は、私たちが次に来る方を助けてあげられるようになれたら良いなと思っています。