VOL. 27
高濱 孝次さん&麻耶さん
地区:加美区鳥羽
思いを語れば、出会いたい人たちに出会えていく不思議なまち・多可町。名前も知らなかったこのまちに、便利この上ない街・大阪堺市から移り住み、日々噛みしめる幸福感、なりたい自分たちになっていく高揚感を抱きしめている高濱ご夫妻。
ともに小学校教員免許を持つお二人は、枠にあてはめない子育てをここでなら実践していけそうだともおっしゃいます。ここに来られる前のお二人、来られてからのご家族の姿・夢をやさしく熱く語ってくださいました。(R4.11.26)
高濱 孝次さん(小学校教諭)
高濱 麻耶さん(フリースクールスタッフ)
森のようちえん こころね:フリースクールの拠点
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サッカーと音楽と
孝次さん:僕は幼い頃、大阪の富田林の公団住宅に住んでいました。兄がいて、兄の友達やそのきょうだいたちともよく遊んでいましたね。虫とりに行ったりして、自然の中で遊ぶのが日常でした。
小学2年生で富田林から南港の高層マンションに引っ越して、そこで同い年の友達が一気に増えました。サッカーチームに入り、将来はサッカー選手になる!と思っていました。
4年生のとき、担任の先生からリコーダーを教わったのがきっかけで、音楽が楽しくてしょうがなくなりました。楽譜も読めるようになり、中学ではエレキギターを弾くようにもなって、友達とバンドを組みBOØWYの曲をコピーするのに夢中でした。大学でも社会人になっても、そして今も音楽は続けています。
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楽しかった子ども時代。 その記憶が私の原点
麻耶さん:私は、堺市育ちです。子どもの頃は幼稚園が嫌いで毎日のように泣いていました。でも、9歳くらいから、自分が活発になっていくのに気づいて、そこからは友達と遊ぶのが楽しいと思うようになりました。小学校まで歩いて30分ほどかかるのですが、毎日友達と遊びながら帰る感じです。帰ってからも鬼ごっこやボール遊びをしていました。
中学でバスケット、高校ではソフトテニス、大学ではラクロスと、それぞれの時代で運動部に入っていました。体を動かすのが好き、そして何より、スポーツで生まれる“人と人との絆”が好きなんです。
人の話を聴くのが好きで、大きくなるにつれ自分が子ども好きだとちょっとずつ自覚していったので、大学では児童発達心理学を専攻しました。
大学の講義で不登校の子どもが増えていると知り、自分は子どもの頃、学校が楽しくて、友達と遊ぶのがあんなに好きだったから、「学校に行けていない子がいるってつらいな。何とかしてあげられないかな」と強く思い、在学中に小学校の教師になると進路を決めました。
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社会人経験のある先生と新任の先生
孝次さん:大学卒業後はIT企業に勤めました。若く活気に満ちた会社で、顧客と信頼関係も築け、楽しく働いた5年間でした。学生時代も就職してからも教師になるなんて実は考えてもいなかったんです。
でも、会社員時代に、まとめる自信のあった商談がだめになったことがあって、挫折感から一度、仕事と自分自身を見つめ直したいと考えました。
「大切にしたいのは人との絆だ」、信念は定まりました。そんなとき、ふらり入った本屋さんで「日本語教師」の素晴らしさに気づかされた本と出合い、これだ!と目指し、日本語教師専門学校に通いました。夢に近づいていたある日突然学校が倒産。払い込んだ学費・渡航費も消え、茫然としました。
「教師になるなら学校の先生とかどうなん?」、父親の思いつきの一言が僕を突き動かしました。30歳手前、教員免許はない、これから教師になれるのか? 母校の小学校を訪ね相談をすると「君みたいに社会人経験のある教員がこれからは絶対に必要になってくる」と言ってもらえました。
免許を取るために、2年間、アルバイトをしながら通信教育で勉強をし、採用試験にも通り、晴れて小学校の先生になれました。和泉市の小学校に赴任し、そこで麻耶と出会いました。
麻耶さん:私は大学卒業と同時に教師になりました。なった途端に子どもたちだけではなく、保護者の方々とも接しなければならないのですよね。社会に出たばかりでまだまだ子どもで何もできない。教師になって2年目の、浅くて未熟な頃にこの人が赴任してきました。しっかり社会人経験があることがすごく羨ましかったです。電話対応一つとってもサラサラーッとこなすし、すごいなと思いました。教師としては彼は1年後輩ですが、歳は8つ上。しっかりした大人のイメージでした。
孝次さん:僕からしたら周りの先生方は「教師になるための勉強をしっかりしてきた人たち」。僕は通信教育でしかその準備をしなかったから、自分の薄さを感じていました。でも、こうしたほうがいいのではと思うことがあれば、会社員時代と同じでどんどん意見を言うようにしていました。
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結婚。理想の子育て観。 手に入れた新築マイホーム
麻耶さん:私たちが結婚したのは2011年3月。夫婦で同じ学校には勤められないので、私が異動することになりました。
二人で最初に住んだのは、住宅メーカーが建てるお洒落な賃貸マンション。住みやすかったです。この先ずっと賃貸に住んでもいいなと、その頃は思っていました。二人ともあまり先のことは考えていなかったのかもしれません。
ただ、子どもは3人ほしいねとか、子育て観についてはよく話してきました。
私は、子どもに「こうなりなさい」としつけたくはないんです。持って生まれてくるそのままのよさを引き出せる親になりたい。それは小学校の子どもたちに対しても同じで、その子その子によって違う個性を丸ごと受け止められる先生でいたいと思い、そうしてきました。
3年生、2年生、5年生、6年生と担任してきて、次に1年生を受け持ったとき、「1年生ってこんなに自由なんや!」と驚きました。高学年になるにつれ、学校生活の流れが体に染み込み、学校教育というものに慣れた子どもたちにこちらも慣れていたので、本来はこんなにのびのびしている子たちに学校教育の枠を当てはめていいんだろうかと、迷うようになっていったんです。
その頃、長男を授かり産休に入りました。
育児休暇中に次男を授かり、賃貸マンションから私の実家近くに家を持つことにしました。
孝次さん:堺の新築一戸建て。将来生まれてくる子ども分の部屋割りも考えて、ある程度自分たちの思いを反映してもらえる住宅を35年ローンで建てました。一生ここに住むとそのときは思っていましたね。
麻耶さん:小学校教師への復帰は決めきれないままでしたが、一大決心をして買った家。親の近くなら助けてもらえることもあるだろうし、住み心地はとてもよくて何の問題もない。そのときの価値観では大満足でした。
でも、その家に暮らすと、都会での子育ては孤立しているなと、徐々に感じるようになっていきました。
3人目が生まれ、家の中に入ってしまったら日中は私一人で3人を見ないといけない。それは物理的にも気持ち的にも大変なことでした。両親が近くにはいるけれど、親もまだ現役世代で自分たちの生活がある。だから心のよりどころではあるけれど、実際には依存しなかったんです。
孝次さん:家の性能はよすぎるほどで、それはともすれば外からの断絶にも思えてしまいます。雨が降ってきても気づかないほどでした。
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防災訓練としてのキャンプがきっかけ? 移住への夢と歩み
麻耶さん:2017年、堺を大きな台風が襲って、家が停電になったんです。備蓄していた食料でしのいだのですが、それをきっかけに防災訓練として「キャンプ」をしてみようかという話になりました。始めてみたキャンプはもう楽しくて、3連休のときや夏休みなどに家族でよく自然の中へと出向くようになりました。
大荷物を持って出かけ、のびのびと遊んで、大荷物を持って帰って片付けに追われる。家族みんな自然が、キャンプが大好きなら、いっそのこと暮らしごとキャンプそのもののように移せたらいいのにと思うようになりました。
そしてコロナ禍となり、学校は休校、ステイホーム生活に入り、外の世界と断絶。自然に飢えました。“移住”という考えがいつしか私の中に浮かんで、一人、妄想を膨らませ始めていたんです。こっそり堺の家を査定してもらったりしていました(笑)。
孝次さん:これから先を生きていくということと、防災を兼ねたキャンプ、自然、子育て、そういうものが麻耶の頭の中で一か所に集まっていったんでしょう。
麻耶さん:夫はその頃ちょっと仕事に行き詰まっているようでした。転勤して一年目の年で、前の学校での中間管理職のような役職から、また担任に戻り、先が見えず思い悩んでいるのを感じていました。
孝次さん:そんなときに教師の友達から「篠山の人と結婚することになったから移住する。兵庫県で採用試験を受け直した」との話を聞いて、麻耶に「移住、いいよな~。俺らも移住しようか」と何気につぶやいたんです。そうしたら「実はな、この家、査定に出してん。ローンを返せそうな売値になるよ」って言うからビックリして(笑)。でも「それやったら動けるやん!」「淡路島に行こうか」「教師なら全国でできるやん」「兵庫県の採用試験について調べてみるわ」って、一気に物事が動き出したんです。
思いっきりワクワクしました。ガラッと方向を変えることにこんなにワクワクする自分がいることに驚きました。
麻耶さん:最初は、二人の好きな淡路島に行きたいと思いました。何度か観光で訪れて、活気のあるところだと思っていたので。でも、役場に問い合わせても音沙汰なしで、別の候補地を探すことにしました。二人とも大学が神戸だったし友達は篠山に行ったし、移住先は「兵庫県内」と決め、「兵庫」「田舎暮らし」をキーワードに調べてみると「多可町」の物件がちらほらと上がってくるんです。
「多可町? どんなとこやろ?」と調べを進め「タカ、と。」のサイトにたどり着き、空き家バンクでこの家を見つけました。
定住推進課に問い合わせてみたら、連携がきっちりしていて、内見の段取りもすぐに整い、定住コンシェルジュの方の紹介もしてくれました。
孝次さん:たまたま結婚10周年の記念日に多可町に初めて来ることになりました。ラベンダーパーク前の道、加美区の景色、「うわーっ! いいなぁ、ここ」と声をあげましたね。
鳥羽のこの家も僕は一目惚れでした。庭の趣き、縁側の雰囲気、前の人が丁寧に暮らしていたのでしょう、状態も良かったです。帰りの車で不動産屋さんにここを買うと伝えました。
麻耶さん:堺からこの家に越してきたのは2022年の3月末です。大人たちが勝手に決めた移住を子どもたちに打ち明けたとき、次男がハイテンションで受け入れてくれてとてもほっとしました。大人が案ずるよりも何倍もスルッと、子どもたちは柔軟に捉えてくれたんです。
孝次さん:「えっ! カエルさんがいっぱいいる、あのお家に引っ越すの? 最高やん!」って(笑)。
工務店に改装をお願いしていたのと自分の仕事の区切りもあって、内見から1年後に住み始めることができました。それまでは別荘使いのような、キャンプに来るような感覚でこの家に親しみました。
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旅ではなくてここに暮らせている。 最高の毎日を生きている
麻耶さん:多可町ではまだ1年も過ごしていませんが、しっかり計画を立てなくても、思う存分自然の中で遊べる環境が本当にうれしいです。
この町のよさを挙げだすときりがないけれど、たとえば紅葉の季節なら、真っ赤になった段階でポイントを決めて紅葉狩りに行くのではなく、徐々に色づいていく美しさごと町のいたる所で楽しめます。田植えの季節、田んぼに映り込む空と夕景、そういう景色に見惚れ、「旅行に来てるんじゃないんだ。本当にここに今自分が住めているんだ」と思えることがとても幸せです。
孝次さん:そう、なんて幸せなんだろうと毎日思います。
今は丹波篠山市の小学校勤務ですが、「行ってきま~す」と家を出て外の空気を吸って、小鳥が鳴いて、山の中、自然の中を車で行く楽しさを味わっています。帰りは早く鳥羽に戻りたい! 車から降りた瞬間にホームに帰った安堵感に包まれます。堺での通勤は、街中を原付でピュッと行く15分でしたが、それよりも45分かけて大好きなホームに戻るこの時間がいとおしいです。
ここでの暮らしにどんどんのめり込んでいっていますね。キャンプで焚火が好きになっていたので、「薪ストーブが家に置けたら最高やな」と思い描いたのですがそれも叶ったし、木を切って薪をくべているだけで幸せ。これまでの生活と全く違うことをしているのがおもしろいんです。あんなこと、こんなこと、やりたいことができていく自分たちを楽しんでいます。
ご近所にも恵まれていると実感しています。
クリーンパトロールや花植えといった村の行事で集まると、皆さん楽しそうにどんどん話しかけてきてくださいます。三男の七五三を青玉神社でしたいと村の総代さんに相談したら、神主さんに連絡してくれて、区長さんも式の準備をしてくれたりして、とてもありがたかったです。
麻耶さん:皆さんとても温かいです。と、言葉にすると平易になってしまうんですけど…。村の方々が大きな大きな家族みたいに私たち一家を気にかけてくださっている、大事にしてくださっている感じがうれしいです。
私はお菓子作りが好きなのですが、村の工務店さんの雑貨部門のお店に焼き菓子などを置かせていただくことも決まりました。素敵な展開です。
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ないものはつくればいいんやな、 子どもの進路も仕事も
麻耶さん:移住しようかと考えるとき、何かと不安は出てきますよね。子育て世代だと「子どもは地域になじめるかな」「学校に合わなかったらどうしよう」とか。私は、もし子どもが学校に合わなければ、合う学校をつくればいいんだ!と考えるようになりました。三男を森のようちえん「こころね」さんに入園させたのをきっかけに、フリースクールを始めたい人たちと知り合って、学校づくりの夢が本当に形になり始めてきたんです。
教員免許があって子どもの前に実際に立っていた私みたいな人がちょうど求められていたこともあって、今は週に1日だけフリースクールの先生をしていますが、来年度からは子どもたちが毎日通える場所になるよう、少しずつ発展させていこうとしているところです。
知り合いたい人たちに出会えて、次々に人と人とのつながりができていく、そうした不思議な魅力が多可町にはあります。多可町でなら学校づくりもきっと大丈夫。叶うと信じています。
孝次さん:頭であれこれ考えずに自分のハートを信じて動き出す。そんな直観みたいなものに従って僕らは移住してきて、その直感が正解だったという気持ちを日々噛みしめています。
自然の豊かさだけでなく、人の心の豊かさにあふれた町。子どもたちはこの多可町を「ふるさと」として愛していくでしょう。