VOL. 6

悟空 さん&花凜 さん

地区:加美区轟

 見晴らしの良い古民家に、2013年に鎌倉から移住してこられた小湊孝司さんと公子さん。孝司さんは、若い頃には孫悟空のようにやんちゃに暴れまわっていたので「悟空」と名乗り、古民家「悟空庵」で人生を楽にする原理と法則を説く「悟空塾」を開いています。公子さんは「花凜」という作家名でガラス作家として活躍しておられ、あちこちのギャラリーなどで個展を開催しておられます。
 これまで、大きな会社をいくつも経営してこられた悟空さんですが、やっと全ての肩書から開放され、花凜さんと共に築100年以上の古民家での生活を満喫しておられます。(H29.7.27)

悟空(小湊 孝司)さん(悟空塾)
花凜(小湊 公子)さん(ガラス作家)

  • それぞれの道を模索

    悟空さん:僕は、生まれも育ちも鎌倉です。ずっとそこで育って会社を経営してきたので、鎌倉のことは表も裏もいろいろ知っていますよ。

    花凜さん:私は鹿児島生まれです。高校まで鹿児島にいて、大学で初めて熊本に出ました。そこで放射線技師の資格を取りました。

    悟空さん:親父が大きな会社の社長だったんですけど、僕は中学生のときにちょっと引きこもりみたいになっちゃって、中学3年生のときに岐阜県の山寺に預けられました。禅宗の厳しいお寺だったんですが、1年間そこで過ごしました。
     そこから家に帰って来たんですが、もう高校には行く気もなかったのでデザインの専門学校へ進んだんです。そしたら、不思議なことにその学校が倒産しちゃったんですよ。ある日行ったら、学校が無くなってたんです。
    それ以来、「学校には縁がないっていうことだろうから、もういいや…」って家を飛び出しちゃって、友達の家を転々としながらバイトをしてとりあえず生きてました。その頃の湘南って一番やんちゃな奴が多い時期でしょ。僕も毎日ケンカしてました。一匹狼タイプだったし横須賀が近かったので、外国人とばかり遊んでました。伝説の不良です。ケンカよりも何よりも、バイクで負けない。ハーレーに乗ってレースにも出たりして、全日本チャンピオンになったこともあるんですよ。

    花凜さん:私は北九州で就職して働いてたんですけど、一旦鹿児島に戻って、陶芸を習ったりしてたんです。その後、最初の結婚相手の仕事の都合で埼玉に引っ越しました。埼玉でも放射線技師として働いてたんですけど、小さいときからクリエイティブな仕事がしたいという思いがずっとあって陶芸も続けてたんですが、先生が亡くなっちゃって続けられなくなったんです。
    ちょうどその頃、「陶芸は私には合わないかな…」って感じてたこともあって、他に何か自分にできることないかなって探してたときに、「ガラスの器が作りたい」って自然に思うようになりました。でも、いきなり吹きガラスの工房を持って独立なんてできないじゃないですか。最初は諦めてたんですけど、引っ越しをした先で自転車で走っていたら駅前にトンボ玉とバーナーワークの作品が置いてあるガラスのショーウィンドウがあったんです。そこは教室もやってるみたいだったし、卓上のバーナーで器が作れるって書いてあったんで「これしかない!」って思って、「私、これでプロになる!」って決めました。次の日に、さっそく申し込みに行ったんです。


  • 自分の道を切り拓く

    悟空さん:25歳のときかな…「このままじゃいけない!」って思って、たまたま目にした「無料陶芸教室」と書いたチラシを見て、すぐに申し込みました。そこで作品を作らせてもらったんですけど、ものすごく納得の出来ないものになっちゃって、逆に燃えましたね。「これはリベンジだ!」と思って陶芸の先生の住所を調べて、すごい山の中にあるお宅に行ったんです。先生はとても厳しい方で「弟子は取らん!」と言われたんですが、僕も玄関に座り込んで「弟子にしてくれるまで帰りません!」って頑張ったら何とか弟子にしてもらえました。
     ところが、1年間は土を触るどころか掃除に洗濯、買い物とお世話係みたいなもんで、先生がろくろを回しているところさえ見せてもらえなかったんです。先生はそれに耐えられるか見てたんですよ、きっと。1年間頑張って、ようやく土を触らせてもらえるようになって、26歳から30歳までみっちり修行しました。青磁の世界は、味があるとか無いとかそんな世界ではなくて、同じものはピッチリ同じじゃないといけないんです。侘び寂び無しの世界ですから、1ミリ違ってもダメなんです。

    花凜さん:私は5年間ガラスのお教室に通っていました。最初はトンボ玉から始めて、それから酸素バーナーっていう卓上の小さなガスバーナーを使った作品作りに移行するのが道筋なんですけど、私は酸素バーナーがやりたかったので、1ヶ月くらい経った頃に先生に直談判して「トンボ玉は自分で勉強するので酸素バーナーを教えてください」って頼んだら、私の気迫に負けたのか「いいよ」って言ってくれました。それからはずっと酸素バーナーを習ってたんですけど、このバーナーは2,000℃くらいになるので当時住んでいた団地の自宅では無理だなって思って、引っ越したんです。運良く、1階がブティックだった物件が格安で借りれたのでそこに移りました。

    悟空さん:二人共、直談判して…過去に似たようなことをやってますね。


  • 父親の会社を再建

    悟空さん:30歳になったときに、独立の資金を借りようと初めて親元へ帰りました。当時、父親は鎌倉では有名なハム会社の3代目の社長だったんですが、北大路魯山人のコレクターで、母親は何百人っていう弟子のいるお茶の先生をしていたので、二人ともすごい目利きだったんですよね。そんな二人の元へ自分の作品を持っていくのは勇気がいったんですが、「実は、今まで陶芸の修行をしてたんだ」と言って、作品を見せたらすごく褒められました。親父に初めて褒められた。父親も母親もとても喜んでくれて、庭の一角に窯を作って家も建ててくれました。それで陶芸家デビューしたんです。
     30歳そこそこの若造なのに、個展を開いたら全て完売という世界でした。もう、親の七光りですよね。作ればどんどん売れるわけですからお金も入ってくるんで、またバイクを買ったり車を買ったりして遊び始めちゃったんですよ。

     そんなときに父親から、「ちょっと家業を手伝わないか」と言われて会社の仕事を手伝うことになったんです。僕の性格上、やるからには全部知っていなきゃ気がすまないので、まず工場でハムの作り方を覚えて、その次に営業に回って、次に冷蔵車の運転方法を学んで…ってやってたんですが、そろそろ経理を見ろ、後を継いでくれ、って話になったときに、経理部長が「この書類を見てください」って言ったんです。そこで会社が大きな負債を抱えているっていうことを初めて知らされました。
    ものすごい金額だったのでひっくり返りました。60億ですよ…。年間4億の赤字です。そこから先、僕の人生はほとんどはこの借金の返済と会社の再建のために費やしました。日本のハムの歴史を創ってきた会社ですから、潰すわけにはいかない。でも、内情を人に話すわけにもいかない。なので、後からやって来たくせに大改革をどんどんやっていったので、社内からは「悪魔」と言われて胃に穴が開いちゃって、痛み止めを打ちながら会社のブランド価値をあげていったんです。8年目で自殺しようと思ったけど、50いくつのときにやっと黒字になりました。子会社も全部回るようになって、すべて他人に譲れたのが55か56歳のときかな。
     親父は鎌倉の名士だったのでいろんな政治家とかともお付き合いがありましたので、僕もそこそこ権力とかお金の表も裏を見てきたんですが、お金っていくらあっても実は幸せじゃないんですよ。ホントに人をダメにしますね…。


  • 二人の出会い

    花凜さん:その後、このブティックの物件から出なくちゃいけなくなって、また火を使える場所を探したんですけど、なかなかそういう物件って無いんですね。それで、治安の悪い下町に一人で引っ越しました。37歳ぐらいのときに悟空さんに出会って、「ここは良くないよ。鎌倉や葉山で探してみなよ」って言われて、私も鹿児島育ちだったんで「どうせなら海のそばがいいな〜」って思って探してたら、悟空さんのお友達から空いている喫茶店があるって教えてもらったんです。中を見せてもらったら一目惚れしちゃって、そこを借りることにしました。夫とは、このときから遠く離れた別居状態になっちゃったんですけど、そこで10年間ガラスの教室と自分の作品作りをやってました。

    悟空さん:花凜さんとはバイク仲間だったんです。彼女はモト・グッツィというモンスターみたいなむちゃくちゃ大きなバイクに乗っていて、ネットで調べてみたら、女性でそのバイクに乗っている人は、彼女を入れて世界に2人しかいなかったんですよ。で、あるツーリングにその彼女が来るっていうんで、面白そうだなと思って僕も参加したんです。僕はレースもやっていたし、峠道なんて誰も付いて来れないだろうなって思って走ってたら映ってるんですよ〜、バックミラーにバイクが一台。コーナーで詰めてくるし、唯一付いてくるし、よく見たらヘルメット越しに笑ってるんです。それが花凜さんだったんです。もう、びっくりしましたよ。僕に付いて来れる人がいるんだ~って思って。案の定、他の人たちはゆっくり坂道を下りて来たんですけど、すごいなと思いました。それが彼女との出会いでした。

    花凜さん:私、薩摩おごじょなんで、それまでツーリングとか行ってもなんか男の人を抜いちゃいけないみたいな思いがあって、ちょっとストレスが溜まってたんです。でもそのとき、私が全開で走っても絶対に前を走っている人がいて、それが悟空さんだったんですよ。すごく嬉しくなっちゃって、「自分の好きなスピードで走れる!」って付いて走ってたんです。
     何年か暮らしてみると、葉山は私の性に合っていて、もう埼玉に帰る気が無くなったので、夫とは離婚することになりました。ただ借りてる物件がなんせ喫茶店だったので、お風呂も無いし、まともに寝る場所も無いという状況でした。街道沿いだったので、夜中でもバ イク仲間がどんどん来ちゃったりして近所にも迷惑をかけるので、次に見つけたのが外国人向けに造られた新築のお家だったんです。それでまた一目惚れしちゃって、そこを借りました。
     そこから多可町に来るまでの間、12年間ぐらい葉山に住んでいましたが、当時から、いつか歳を取ったら二人で田舎に住んでいたら楽しいだろうな、というイメージはありました。


  • 価値基準を変えた臨死体験

    悟空さん:ある日突然、お肉が食べられなくなっちゃったんですよ。それまでステーキとか焼き肉をバンバン食べてたのに、体が受け付けなくなっちゃって。それから、添加物とかも気になりだして、自然な方へ自然な方へと流れていって、一気に自分自身が田舎暮らしの方向へ変わっちゃたんです。不思議なんですけど。
     それと僕にとってもう一つ大きなきっかけになったことがあって、臨死体験をしたことがあるんですよ。突然倒れて救急車の中で目が覚めたんですが、すっごく平和な世界だったんです。救急車の中で周りが大騒ぎしているのは感覚として分かっていたんですが、僕自身はとても静かで穏やかな心地でした。何とも言えない幸せな気分なんですよね。病院に着いたら何一つ原因が見つからなくて、帰されましたけど。
     それから、考え方から何からすべてがガラッと変わりましたね。都会にいることがもう嫌になっちゃって、都会での生活は止めようと思いました。実は、淡路島に土地を買おうと思ったことがあったんですよ。小高い山のてっぺんで、見晴らしが良くってね。ところが、ある日その場所を見に行ったら近くで工事が始まってたんです。それが風力発電の風車を立てる工事だと分かって、作業員のおじさんに聞いたら「こんなとこ、低周波の音がうるさくて住めないよ」って言われたんで、そこを買うのを諦めました。縁がなかったんですね。


  • 悟空塾

    悟空さん:今、僕は「悟空塾」という講座みたいなことをやっているんですけど、別に僕が「来てください」って宣伝しているわけじゃないんですが、いつの間にか「悟空さんの話はおもしろい」ということになっていて、友人が友人を連れて来てくれたり、夫婦や子どもを連れて来てくれたりするようになりました。まったく知らない人がやって来て、「お話を聞かせてください」と言われることもよくあります。
     皆さんのお話を聞いていて思うのは、多くの方がすでに自分の心の中で気がついていることに、僕がちょっと背中を押してあげるだけのきっかけを求めているんですよね。人の心は自然に「楽になる」ことを望んでいるのに、いろんなしがらみの中で自分で自分の首を締めているっていうことが多いんです。僕が都会で暮らしていたときもそうでした。あの頃の自分は、今振り返っても同じ自分だとは思えないですよ。


  • 環境を選ぶライフスタイル

    悟空さん:移住というのは、僕にとっては人生すべてのリセットだったんです。離婚もして、会社の借金も全部返済をして、肩書も何もかも捨ててゼロからのスタートでした。過去にやってたことに、何のプライドもないです。
     初めてここを訪れたとき、階段を上って振り返ったらちょうど雪が降っていました。もう、それは綺麗な雪景色でね。ここは天国じゃないかって思うくらい。僕は田舎が好きなんでいろいろな場所を見てきましたけど、ここの環境はすごいですよ。他とはレベルが違うんです。すごくバランスのいい田舎なんですよね。まちの宣伝は下手だけど、逆にそれがいいんじゃないかと思います。
     この間も、久しぶりに大阪に行ったんですけど、その喧騒に頭がおかしくなりそうになりました。僕は「田舎暮らし」をしに来たんじゃなくて、都会を捨ててきたんです。それがそもそもの動機なんです。田舎でいかにも「田舎という暮らし」をしたいわけじゃなくて、「環境」が欲しくてここに来たんです。都会って、お金が無いと回らないような仕組みになっているんです。だから、人よりもいい生活をするためとか、いいものを食べるために必死になってお金を稼がなきゃいけない。人がどんどん疲弊して、ギスギスしていくんですよね…。
     お金というものが作り出している生活の象徴が都会で、みんなお金のためだけに生きている。だから田舎に来たら「仕事どうするの?」って聞くんですよね。田舎に来ようと思うんじゃない、都会を捨てようと思ってほしい。今ここに居ること自体が夢みたい。夢の中に居るみたいだと思います。

    花凜さん:私もここの環境が大好きです。最初は、千ヶ峰っていう霊山があるから…って聞いたから見に来ただけなんですが、たまたまその帰りに目にした「売却物件」の看板を見て、その場で不動産屋さんに電話してここに決めましたから。鳥羽にある青玉神社という場所もとても心が洗われる場所で、制作に煮詰まるとときどき行くんです。

    悟空さん:こっちに来るときに、別れた奥さんと会社に全部自分の財産をお渡ししてきたんだけど、法人に寄付すると自分個人に税金がかかるって知らなかったんです。そんなこと、普通、知らないでしょ!?それで、ちょっとだけ残していたお金も、先日、全部税務署に持っていかれました。なので、ホントに何も無くなりました。でも、都会でお金を持っていた頃よりも、肩書もお金も全部無くした今の方が、ずっと豊かでいられるということを実感しています。
     それに多可町は人がいい。精神的にとても豊かなんだと思います。もし移住を考えてる人がいたら、まず移住を経験した人に話を聞きに行くことをお勧めします。彼らはきっと僕と同じように、多可町の良さを熱意を持って話してくれると思いますよ。