VOL. 16
井上 周邦さん&玲子さん
地区:加美区奥豊部
周邦(しゅうほう)さんはカメラマン、玲子さんはライターとして、共にフリーランスで活躍中の井上さんご夫妻。全国あちこちを飛び回っていた忙しい日々と集合住宅での生活に別れを告げ、一昨年12月に愛猫ルナちゃんと共に加美区奥豊部に越して来られました。
購入した古民家の傷みが想像以上に激しかったので、主に周邦さんがコツコツとリノベーションし、少しずつ理想の形に近づいてきたとのこと。ご近所にも恵まれて、田舎での暮らしを満喫しておられます。お仕事のことや移住体験、田舎での暮らしなどについて、お話をうかがってみました。
周邦さん(カメラマン)
玲子さん(ライター)
多可町移住記
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カメラマンの道を選ぶ
周邦さん:僕が生まれたのは、宝塚の中山です。今はすごい住宅街になっていますが、当時は駅から自分の家が見えたくらい何も無いところでした。そこから大阪に引っ越したんですが、それが家族で一緒に過ごした最後の場所になりますね。僕が中学のときに父親が他界し、母親も大学を出たときに他界したので、それからずっと独りでした。言ってみれば天涯孤独でしたね。周邦っていう名前がちょっと変わっているのは、父親が昔お寺の小坊さん(お寺の見習い)をしていたことがあって、その時の名前を僕につけてくれたからなんです。
高校を卒業してから大学に進学するまではずいぶん時間を使ったので在学中は、他の学生よりもちょっと歳上だったんです。写真工学を学んでいたんですが、バイト時代に病院で働いていたことがあって、放射線技師や整形外科の先生から「これからはフィルムじゃなくて、コンピュータで画像を触るんだぞ」なんて言ってCTの画像とか見せてもらっていたので、「おもしろいな」と思ってそっちの道に進みました。
新卒でも働くところがなかなかなかったんですが、カメラマンの先輩が声をかけてくれて写真の撮り方を教えてもらいながらバイトしていました。そうこうしているうちに仕事がもらえるようになって、フリーランスとして独立して今までやっているっていう感じですね。
ユージン・スミスという写真家の水俣病に関する写真を見たときに、「あ、写真っていいな」と思ったのもきっかけですね。普通は編集者の紹介がないと仕事なんてこないって後で聞いたんですが、僕の場合、知り合いが編集者だったので、言われるがままに写真を撮っているうちに仕事が拡がっていったというラッキーな展開でした。「週刊SPA!」という雑誌の巻頭グラビアを担当していたので、人物を撮ることが多かったですね。毎週1枚ずつ誰かを撮っていました。その他、他の雑誌の撮影や企業から依頼された写真も撮っていました。
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転居続きの子ども時代
玲子さん:私の両親は東京出身ですが、転勤で福岡にいたときに私が生まれたそうです。幼稚園に入る前くらいまでは福岡にいたので、小さいなりに「せからしか」とかいっぱしの博多弁を話していたみたいですよ。そこからまた東京に戻ったんですが、また転勤で小学校1年生のときに、今度は京都市内へ引っ越しました。そして、小学6年生のときに京都の八幡市の男山団地へ移って、集合住宅というもので暮らしはじめました。それまではずっと戸建て生活だったんですが、初めて地面から離れて生活をしました。
でも、そこには1年しかいませんでした。これは偶然なんですけど、父親も写真関係の仕事をしていて京都での仕事場が山科だったんですね。きっと八幡市の通勤は遠かったんでしょうね。今度は伏見に移りました。伏見でもマンション暮らしでしたので、京都に来てからは集合住宅暮らしが続きました。
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ライターとしての一歩と周邦さんとの出逢い
玲子さん:中学・高校は聖母学院というところで過ごして、いわゆるお嬢さんですよね(笑)。大学は京都産業大学に進みました。そこを卒業して、アパレル業界の婦人服会社へ就職して大阪の江坂に勤務していましたが、OLはそんなに長く続かなかったというか、何となく2、3年働いて辞めていくみたいな風潮がありました。時代がそういう時代だったんですよね。で、会社を辞めたあと、知人の紹介で小さな編集プロダクションに入り、ライターとしての人生が始まりました。そのプロダクションは、地図とかガイドブックとかを多く出版している大手の昭文社の仕事を請け負っていたので、取材にも行って、ときにはモデルにもなり、記事を書いて写真も撮るというような仕事していました。忙しかったですけど、忙しさに酔っていた時期でもありました。
31歳の頃に夫と知り合いました。関西フォトグラファーズという共同写真展があって、仕事柄写真には興味があったので見に行ったら、周邦がいたんです。
第一印象はすごく悪かったんです(笑)。自信に満ち溢れたような感じで、「なんて嫌な奴なんだろう…」って思いました。でも、その後一緒に仕事をする機会があって、一匹狼で仕事をこなす姿を見るにしたがって、「やっぱり一人でプロとして撮ってる人はすごいな」と思えてきました。普通の人なら撮れないような写真を撮るんですよね。
周邦さん:撮影するのは簡単なんですよ。なかなか「撮る」というところにまでいかない。その人に「会う」までが大変なんです。特に事件ものなんかを撮っていると、世間には出せないオフレコの話がたくさん出てくるんです。この仕事を通じて、僕はずいぶん社会の仕組みを学びましたね。多分、サラリーマンでは気づけなかったことがたくさんあると思いますよ。ドラマの中に出てくるカメラマンさながら、タクシーだと撮影対象者から逃げられちゃうので、ホンダのCR-X(小型のスポーツカー)に乗ったりもしていました。
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結婚と突然の発病、そして亀岡での生活
玲子さん:その男気に惹かれてこの人と結婚することになって、私は仕事場が京都で夫は大阪の谷町4丁目に住んでいたので、始めのうちは週末だけ谷四に通っていました。2、3ヶ月だけそこに一緒に住んでいたこともあったんですが、ちょうどその頃に私が甲状腺を患ってしまって大変な時期を過ごすことになりました。目に症状が現れて顔つきも変わってしまい、辛い時期でした。それで、会社を辞めてフリーになりました。
簡単にフリーになるといっても大変だったんですが、夫がカメラマンだったおかげで、「井上に依頼すれば写真だけじゃなくて記事まで上がってくる」っていうことで、仕事は入ってきました。週刊誌の仕事が多かったので、なかなかキツかったですね。締め切りまで3日とかでしたから…。
周邦さん:あっちこっち公団を申し込んでいたのですがなかなか当たらなくて、やっと当選したのが京都の亀岡の公団だったんです。地の利が悪いということで、その頃から少しずつ仕事は減っていきましたね。それまでならタクシーを使って5分で行けたのが、電車で1時間半とかですから。でも、そういう仕事のしかたもしんどいな…と感じ始めていましたし、ちょうど亀岡に移ったあたりがフィルムからデジタルへの移行時期だったんですよ。コンピュータを買って、マニュアルを読んでみたら全くわからなかったんですね。それまで自分は結構何でも知っているほうだと思っていたのに、メーカーに勤める友人に「マニュアルは中学生でもわかるように書いてあるものだ」と言われてすごいショックを受けて、それから真剣にコンピュータを勉強しました。
玲子さん:私にはそのコンピュータ雑誌はちんぷんかんぷんでしたが、唯一分かるページが、「ワイズスタッフ」というネットオフィスを運営する会社の紹介記事だったんです。その会社は、イタリア、東京、北海道、九州など各地にいるライターやデザイナー、プログラマーなどをまとめる会社で、大きな仕事を全国のワーカーたちでチームを組んでこなすという形態をとっていました。とても興味を持ち、さっそく応募したところ、採用されました。
誰もが知るビッグネームの化粧品メーカーや、大手の家電メーカーなどから発注されるライティングの仕事を多く手掛け、充実していました。
ワイズスタッフの仕事で料理のコンテンツを作るという話があったので、「カメラマンいます!」みたいな感じで夫を紹介したんです。ピーマンの肉詰めを撮るっていう課題が出たので私が作って、それを夫が撮影をして提出したら合格しました。「プログラミングも出来ます」ってお伝えしたら、その課題も合格して夫もワイズスタッフで仕事をするようになりました。
周邦さん:あの頃は頑張ってたよな。泊まり勤務もあったし、夜中にコンビニ弁当買って帰ってきて、僕が車で迎えに行ったりして。団地のローンもあったし、亀岡から動けなかったですね。結局、25年も亀岡で過ごしました。
玲子さん:同じような業界にいたので、家でも仕事の話しかしてなかったですね。普通は反対でしょ?家では仕事の話はしないように心掛けるとよく聞きますが、我が家は違ってました。同じ仕事をしていたときもあったので、濃い付き合いですよね。
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移住って憧れるよね…
玲子さん:田舎に移住したいっていう思いが出始めたのは、鍼灸院に通ってたときにきれいな古民家を見つけたのがきっかけで、「こんなところに住みたいな」って思いました。亀岡にも古民家はあったので見に行ったりもしたんですが、びっくりするような値段で…。かと言って、本気で考えていたかといえばそうでもなく、ローンは払い終わっていたんですが実際に移住するまで結構時間がかかりましたね。
周邦さん:僕が田舎暮らしを考えるきっかけになったひとつは、「半農半X」を提唱している塩見直紀さんを取材したことです。その時、初めて「半農半X」という言葉を聞いて、「そういう生き方もあるんだな」って思いました。でも、その頃はまだ田舎に行くっていう気持ちはなかったんですけど、北海道庁からの仕事で移住者を紹介するパンフレットを作ったときに、「北海道に移住したいな〜」って言ってました。
玲子さん:私は雪に閉じ込められるのは嫌でしたけどね…。
周邦さん:ふたりで共通していたところは、まず「好きなロケーションのところに住みたい」ということでした。「隣の家との間に絶対道路が1本以上離れていること」とか、「できたら小さな畑も付いていること」など、段々条件は増えていきました。そういったことをネットで探していたら、自ずとどんどん田舎のほうへと流れていきましたね。
玲子さん:実際、いろんなところを見に行ってもあまりにも傷みがヒドくて、「なんだこれは〜」というところがほとんどでした。5、6件見た頃には、「こういうところしかないんだな…」っていうのが分かってきました。夢物語なのかなって思ったりして、ちょっと諦めかけましたね。
周邦さん:自分たちが、そこに住んでいるというリアリティを想像することができませんでしたね。
玲子さん:そうこうしているうちに、お隣にヘビースモーカーが引っ越して来ちゃって、必ず換気扇の前で吸うもんだから、ダクトを通って家の中にまでニオイが入ってくる感じ。それに参って、もう環境的に嫌だ〜っていうことになりました。
周邦さん:そのことが、結構、移住へのモチベーションになりましたよ。それと、今までガツガツ仕事ばかりやってきたけど、もうそんなにお金もいらないし、そろそろのんびりしたいという思いが強かったのかもしれません。
玲子さん:いろいろ探しているうちに、自分たちでちょっと直したりもしたいよねっていう思いもあって、探していたのは古民家でした。
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潔い田舎・多可町
周邦さん:多可町にたどり着くまでに、兵庫県内をいろいろ見て回りました。特に意識したわけではないんですが、亀岡から西ばっかり探していましたね。別のところで良さそうなところがあったんですが、少し手狭で、しかも内装以外手をつけられないという物件だったんでダメでしたね。で、西脇の方から初めて多可町という名前を教えてもらったんです。
玲子さん:各地の移住担当者みたいな人に何度か会ってきたんですが、熱心に仕事をする方には出会えずあまりいい感じではありませんでした。それが、多可町の担当者の対応がすごく良くて、それまでとは全然違ってたんです。
周邦さん:本当にこのまちに来て欲しいっていう熱意を感じたよね。それまでは、来るなら来れば…みたいな感じだったんですが、やっぱり人の違いは大きいですね。移住を考える人のファーストコンタクトって空き家バンクだったりするから、はじめに会った人がその地域の印象を決めますよね。多可町には定住コンシェルジュがいて、なんかそういう人がいるのって安心できるんですよ。すごく重要なポジションだと思います。
あと、多可町には電車がないでしょ。駅前開発がないのも、移住を決めた大きな要因になりましたね。
玲子さん:多可町は潔い田舎なんです。だから、これまで見たこともないような景色が本当にいいなって思いました。だけど今の家を最初に内覧したときには、「ここはあり得ない…」って思ったんです。臭いがひどかったし、年月による風化以上にいろんなところが傷んでいるという印象を持ちました。そのあと、定住コンシェルジュのお宅にうかがったんですが、大きな衝撃を受けました。古民家リノベーションの成功例がそこにあったんです。私たちが理想としていた古民家暮らしがそこにはあって、信頼できそうなコンシェルジュがその良さを語って勧めてくれたので、「多可町は移住先としては間違いないだろう!」と確信しましたが...いかんせんこの家だけは...。
周邦さん:妻が「あり得ない」と却下したこの家ですが、私の中では始めから「あり」でした。自分のセンスでそこそこに快適にしてみせる自信があったので、妻を説得し、値段の交渉もうまくいったので、この家を買うにいたったんです。電気工事士の資格も必要だろうと思ったので、自分で勉強して第二種電気工事士の資格を取得しました。
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憧れの田舎暮らしをはじめて
玲子さん:田舎での暮らしがどれだけ大変かっていうのは暮らしてみないと分からないけれど、愛猫のルナと一緒にそれなりの覚悟は持って移ってきました。野良猫だったルナを、広い家の中で思いっきり走らせてあげたいというのも私たちの願いでした。
周邦さん:田舎ってもっと排他的なのかなってずっと思ってたんですが、奥豊部は全然そんなことなかったです。他所者をすんなり受け入れてくれるというか、変に「この人たち何者?」っていう感じもなく普通に接してくれるんですよね。ちょっと拍子抜けなぐらい、すんなり受け入れてもらえた感じで、とても感謝しています。
玲子さん:病気を診てもらっていたのが阪大の先生だったんですけど、3ヶ月に1回ほど亀岡から阪大病院に通っていたんです。梅田に阪大のクリニックができたんでちょっと楽になりましたけど、それでも遠くて結構大変で…。でも今は、車で10分ほどで多可赤十字病院に行けば同じ薬がもらえています。田舎に来て、便利な思いをするとは思いませんでした。
周邦さん:この家を買ったのが一昨年の7月で、亀岡の家を売りに出したのが12月だったんですが、2週間で売れたんです。それもすごくラッキーでしたね。それで8月から改修工事に取り掛かりましたが、そこからがなかなか大変でした。
やる気に満ちたリノベーションのスタートだったのですが、予想外の展開が続いて天を仰ぐ状況に意気消沈したりしました。物件は内見だけでは状態が分からないものだと痛感しましたね。しかし、その課題に立ち向かっているうちにワクワク感を取り戻し、「手塩にかけた我が家」が徐々に出来上がっていきました。
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地に足をつけた暮らし方
周邦さん:今は縁あって村の方の仕事を手伝うことになり、夫婦それぞれに週に1、2回、車で30分ほどの集落に通い、障がい者の方たちの生活支援をしています。
玲子さん:ペーパードライバーだった私が、自分の車を持って車通勤しているなんて、我ながらビックリあっぱれです。
周邦さん:最近、知人のお茶屋さんから新茶のパンフレット撮影をしたいという依頼があって、「これまではお茶袋の写真ばっかりだったけど、デザインも変えてストーリー性を持たせたい」というんです。なので、モデルさんがいるということになったんですよね。
玲子さん:「こんな田舎にはモデルさんなんていないよね」なんて言うから、「何をおっしゃる!すぐご近所にすごく可愛いお嬢さんと、すごく綺麗なお母さんがいらっしゃるよ!」ってことで、お願いしに行ったら快諾してくださって我が家で夫が撮影しました。
周邦さん:撮影当日は、その他にも若いお母さん方も来ていただいて、いい写真が撮れました。こういうつながりっておもしろいですよね。
他にも、地元の信用金庫に行ったら「カメラマンをされているんですよね?」と声をかけられたんです。話を聞いてみると、店舗内で写真展をしてほしいというご依頼でした。今まで個展などしたことがなかったのですが、なんと初めての個展が金融機関って(笑)。
玲子さん:そこに私が作っている置物の「雪だるまの作り方」も一緒に展示してもらったんですが、それを見た町内のお客さんから作り方を教えて欲しいということで、講師のご依頼がありました。そうやって人がつながっていくおもしろい地域です。
周邦さん:田舎暮らしの醍醐味って、そういう小さなところに喜びを感じますね。
玲子さん:今はやっとここにただ移り住んだだけで、まだ何も始まっていないような気がしています。大きな改修工事はひと段落したものの、劣化で水道管が折れて直したり、天井裏にハチの巣を見つけて撤去したりと、なんやかんやの事態が次々と起こり、工事道具がなかなか片付けられない状態です。
あれこれ手のかかるこの家に文句を言いながらも、楽しく「きちんと住める基礎づくり」をこれからもしていくことになると思っています。もっと畑を豊かにしたいとか、今は手つかずの北側の庭をイングリッシュガーデン風に整備したいとか、村の人たちと「ちゃん」付けで呼び合えるほどもっと仲良くなりたいとか。もっとのんびりするはずだったのですが、こっちに来てから毎日が結構忙しく、それも楽しんでいます。
周邦さん:田舎は仕事が無いって思われていますが、多可町の中でできる「撮る仕事」「書く仕事」「ICTの仕事」を構築して貢献していきたいと思っています。