VOL. 19

大杉 千恵子さん

地区:中区茂利

 「日本なんてフンっ!だ」、そんな思いを長く抱きながら海外で暮らしてきた千恵子さん。「そろそろ日本と仲直りしたい」と帰国を決め、“日本の拠点”と位置付けた先は、生まれ故郷でも親族が住む土地でもない、最近まで知らなかったまち「多可町」でした。ほぼ毎日オンラインで海外に住む外国人の生徒さんたちに日本語を教えながら、多可町の豊かな自然と多可町民の心の豊かさに「日本の素晴らしさ」を教えてもらっているとおっしゃいます。

  • 波乱万丈の人生はこうして始まった

     私、京都は西陣の出身でね。西陣織の織機の横糸を左右に動かすシャトルのようなもの、日本語ではそれを「杼(ひ)」というんですけど、実家はその「杼」の製造・修理を行う「杼屋(ひいや)」を営んでいたんです。
     私が幼い頃は西陣織が栄えていて、「西陣の杼屋(ひいや)の大杉」と言ったら近所では知られた存在でした。昔は現金商売でしたから、お金を入れる引き出しにお金が入りきらないといった光景もよく目にしたものです。

     でもね、西陣織に機械が入ってきて、家の商売が傾いてしまって、私が小学校3年生のときにいよいよ立ち行かなくなってしまいました。大きかった家も土地も全部手放して、お風呂もトイレもないような、うらぶれたアパートに引っ越したんです。
     西陣にいた頃は友達を引き連れて「遊びに行こ~!」って走り回っていた元気な子だったんですが、困窮生活に陥るとどんどん内向的になっていって、人生初の「屈折」を味わいました。新しい場所に引っ越してから友達は誰もいないし、読書だけが楽しみだったなぁ。好きだったのは『世界文学全集』。他にマンガの『りぼん』『なかよし』とかも読んでいました。

     本当の自分はこんな性格じゃないのに…と思いながらも内向的にならざるを得なくて、中学くらいまではそんな感じ。暗いんだけれども、親にはお金がないってわかっていたから、この先を生きていくためにもお金は自分で貯めないと…と、新聞配達、牛乳配達など中学生でもできるアルバイトを積極的にしていました。

     高校に入る頃にお風呂とトイレがついたアパートにやっと引っ越せて、友達になりたいと思った人とも出会えました。その子と友達になりたいばっかりに彼女の入ったテニス部に私も入っちゃった。本当は、写真部か演劇部か新聞部、そのどれかに入りたいと思っていたのに…。
     テニスをやってみたけど下手で、試合に出ても負けてばかり。「私なんて全然ダメだわ」と自尊心が傷つく一方で、それが第二の「屈折期」となりました。
     そんな頃に乗った市バスで、「青年海外協力隊」の吊り広告を見たんです。自己否定ばかりの私なのに、「これがしたい!」って強烈に感じて、情熱のおもむくままに府庁へ行き「青年海外協力隊に入ります」って宣言したんですけど、「手に技術がないと入れませんよ」と言われてしまって。日本語なら教えられるんじゃないかって言ったんですが、「日本語が話せるのと教えられるのとは別」と諭され、何もできない自分に愕然としました。

     そうして高校生活は過ぎていったんですけど、高3になるとみんな受験勉強に専念するために部活を辞めちゃうでしょ。私は受験勉強一筋になるのが嫌でね、大学にはいずれ行きたいけれど、何も今すぐ行く必要はないんじゃないかと思っていたんです。
     高校を出たらしたいこと、私にとってそれは「見聞を広げるために外国に行きたい」だったんです。中学・高校で英語は習ったから英語を話す国に行こう。アメリカかイギリスだな、アメリカのほうがとっつきやすそうかなという程度の考えで。
     高校生のときもクラブ活動と並行して、ウエイトレスや歯医者さんのアシスタントなどをしてお金を貯めていたからそれを持って旅行会社に行って、「アメリカに行きたいです」と言ったのね。そしたら旅行社の人が「あなたね、アメリカに親戚でもいるの? 18歳の女の子が一人でアメリカなんて無理」と、取り合ってくれなかったんです。

     あきらめて家にいたら、「いい若い者が就職もせずに家で遊んでいるなんてみっともない」って、「行儀見習い」という名目で1年間、父の友人宅の染屋さんに家事見習いに出されました。やっぱりアメリカに行きたい気持ちはその間もおさまらなかったから、大人しくその1年を乗り切った後で、ついに海を渡りました。


  • 夢は自力で叶える

     横浜から船に乗ってサンフランシスコへ。アメリカに行きさえすれば英語が話せるようになるだろうなんて考えは甘かったわね。勉強が必要だと痛感して、その渡米は結局“旅行”のようなもので終わりました。日本へ帰って勉強しよう。このタイミングで「受験勉強」を始めようと考えたんですが、帰国してしばらくしたら、母が父と揉めて家を出て行ってしまったんです。
     当時私は20歳、弟は17歳で、妹は12歳。私たち子どもはみんな母の味方でしたから、「お父さんが悪いんだから出て行って」と父に家を出てもらって、子どもたち3人だけで暮らすことにしました。弟がすでに働いていたので、収入は主に弟に頼って、私もアルバイトをして家計を助けながら母親代わりをしました。

     そんな生活も何年か経つと落ち着いてくるもので、やっぱり受験勉強がしたい!と思う時期がまたやってきました。でも予備校に行くお金はないし、夜間高校で高校の勉強を復習できないかしらと考えたんです。で、問い合わせてみたら「一度普通高校を卒業した人は夜間高校には入れない」んですって!
     途方に暮れていたときに助けてくれたのは、かつてのアメリカ旅行でお世話になったアメリカ人夫婦でした。「アメリカは高校までが義務教育。自分たちが親代わりになってあげるから、アメリカで高校生活をやり直せばいい」って言ってくれて。授業料だけでなく、スクールバスも文房具もタダ。そんなに優遇されたのはちょうどアメリカがマイノリティ政策を打ち出していた頃だったからかもしれません。

     そうやってアメリカで高校生になったのが26歳の頃。夫婦は美容院を営んでいたので、私も店を手伝って、夫婦のお孫さんのシッターもして高校に1年間通いました。
     1年では全然十分じゃないから、その後は夫婦の家を出てアメリカで2年制の大学に入って、修了して日本に帰国。二度目のアメリカは、だから「留学」ね。アメリカで学んだ単位を認めてくれる日本の大学を探して、ICU(国際基督教大学:東京都)の3年生に編入しました。

     ICUにはたまたまなんですが、「外国人に日本語を教えるための授業」があったんです。「青年海外協力隊で日本語を教える」というかつての夢に向けた技術を身につけ、大学卒業と同時に「青年海外協力隊」に入りました。33歳でした。


  • もう日本には帰らない。断固として

     2年半の任期でフィリピンはマニラにある外務省外交研究所で日本語クラスを受け持つことに。この経験が自分の原点だと思っています。
     協力隊の任務を一旦終えて、次の仕事を自力で探したらニュージーランドのワイカト大学で日本語教師を探しているとわかってそこへ。
     私の場合、今振り返ってみればだいたい2~3年で1つの仕事が終わるみたいです。ニュージーランドの後もインドネシア、タイ、ハンガリーなど色々な国を仕事しながら渡り歩きました。「神出鬼没の国際人」なんて呼ばれながら。
     懸命に学んだ外国語は10カ国語以上でしょうか。その国にいるときはその国のことを理解したいから、行った国の数だけ猛烈に言葉を勉強します。外国語の勉強自体は好き。趣味のようなもの。でもかなり、時間もお金も労力もかかることよね。

     そうやって海外で暮らし続けました。日本に帰るつもり? それは全くありませんでした。というのも、二度目の渡米から帰国するときに、私は日本人なんだからこの先は母国で日本のために働こうって一度は考えたんです。だけど、日本の社会は私なんかをまったく必要としていなかった…。人より10年遅れて大学生をしていたから、多くの人に「30過ぎて大学生?」っていぶかしく扱われてね。日本は一度“流れ”から外れた人にはものすごく冷たいと肌身で知りました。これっぽっちも必要とされていない現実はものすごく衝撃的で、「フン! 日本なんか」って、その時からずーっと思ってきました。“人生いたるところに青山あり”なんだから、これからは日本にこだわらずに生きていこうと誓ったんです。


  • ウルグアイ、インド、そして因縁の日本へ

     色々な国で暮らして働いていると、すごく気に入る国もいくつか出てくるようになるんですよね。
     青年海外協力隊の最後の任務地はハンガリー。その国が大好きになって、ここに住みたいと思ったんですが、ハンガリーは長期ビザを取得しようとしても外国人一人では何もさせてくれない国。言葉が話せたって関係なし。書類一つ申請するにもハンガリー人と一緒じゃないと認めてくれないんです。

     大好きな国のもうひとつ・ニュージーランドは、逆に何でも一人でことを運べる国。「何年も前にこの国のワイカト大学で日本語を教えていました」と伝えると調べてくれて、「当時取得した永住権はもう切れているからまた申請しますか? 運転免許証は今再発行しましょうか?」みたいに簡単に手続きが進んでいくんです。
     だからこれからはニュージーランドに落ち着こうとそのときは決心しました。それが2003年のことです。
     この国で、今までにしたことのない仕事、したい仕事を何でもしていこうって考えて、はじめにやったのはB&B(Bed & Breakfast)、その次は不動産業、その後はお寿司屋さん! 照り焼きチキン・かにかま・ツナマヨ・フレッシュサーモン、全部巻きずし。人気でした。4種類じゃ物足りないかと、すき焼きビーフンロール、おいなりさんもラインアップに加えて。一人だけで朝早くから仕込みをして大変だったけれどものすごく楽しかった。お寿司屋稼業は私としては長く続きました。4年はやったかな。

     ニュージーランドでは「ヨガ」を習っていたんですが、その先生がハンガリー人で、ハンガリーは私にとっては「ずっと住みたい」と思ったほど特別な国だったから、その国の人が言うことにはちょっと敏感になってね。「インドがすごく素敵だ。素晴らしい」って言うんですよ。なら行ってみようかしらと思ったんですが、私はちょうどそのときウルグアイの大学に「シニア・ボランティア」の日本語教師として2年3カ月派遣されることが決まっていたから、ウルグアイから帰っても、もしまだインドに行ってみたい気持ちが残っていたら行こうと思いました。

     実際インドへの気持ちはウルグアイでの仕事を終えても、まだちゃんとあったからインドへと向かいました。自分の目で見たインドは本当に素敵だった。ジャングルみたいに豊かな緑の中に色とりどりの花が咲いてユートピアみたい。死ぬには最適な国だわとも思ったけれど、気候の厳しさはもちろん、基本的な生活条件が過酷よね。オートバイが人々の足で、私も乗っていたんだけど、舗装されていない道が80%。ガタガタ道を腕でこらえながら走る感じですね。
     実はニュージーランド時代に川下り&登山ツアーに参加して一度右腕の骨を折っていたから私には厳しかったのに、インドでオートバイから転倒して二度目の骨折をしちゃった。肘の関節を損傷したんです。大きな手術を受けて、療養中は暑くて暑くて、一度とりあえず日本に帰ろうと決めました。妹のいる伊豆で肘の再建手術を受けると決めて。

     伊豆は気候が温暖で良いところです。「日本なんて!」と思ったままでいるより日本に生まれてよかったわと思ってこれからを生きていくのもいいかなって、ちょっと住んでみることにしました。でもね、私のような見慣れない人がウロウロしていると誰だろうって目で見られるんですよね。


  • 多可町民の温かいまなざしに癒されて

     実はインドでは「世界中の人が集って国際平和都市を築こうとする“実験”」といったものにも参加していたんですが、そのコミュニティで日本人の「要子さん」という方と知り合ってとても仲良くなりました。要子さんも海外が長い方だったんですけど「なんか今、日本がいいみたいよ」なんておっしゃるの。
     要子さんは本当に強い人。私にとっては特別な人。何て言うのかしら、たとえば、周りのみんなに反対されるようなことがあっても、結局は周りを変えちゃう人。そんな要子さんが日本に移住すると決めて候補地をネットでくまなく調べて、「ここが良さそう」と絞り込んだ一つが「多可町」でした。
     「千恵子さんもどう?」って誘われて、ちょうど私も日本と仲直りしたかったから一緒に視察旅行に行くことにしました。
     実際に多可町を訪ねて、定住コンシェルジュの方、定住推進課の方に案内してもらい、自然の豊かさに魅せられて、水と空気のきれいさを感じてすぐに多可町が気に入りました。何より、信頼する要子さんが「決めた! 多可町に暮らす」と言ったのが大きかったです。この人が言うなら間違いないって思うから。

     中区茂利のこの家の購入を決めたのは第一に「バルコニー」があったから。ここから周りの田んぼや山を見渡すのが好きなんです。国道に面しているのにうるさくないし。
     やたらと部屋が多いのも魅力。トイレと玄関は元から2つずつあったし、なんだかいろんなことができそう。いろんなことのひとつとして、まずは「部分賃貸」を始めました。お風呂と台所を増設して、さらにあちこちをリフォームして、部屋のいくつかを人に貸せる状態にしたんです。田舎の暮らしを賃貸で楽しんでもらえます。

     この家に住み始めたのは2020年の3月中旬からですが、去年の夏に荷物だけの引っ越しは済ませて、またニュージーランドに帰っていました。実はニュージーランドにもまだ家はあって、あっちの家も大きいから、半分を売ろうとしている最中なんです。半分は残しておきたい。ニュージーランドは大好きだからいつでも行けるように。

     自然とか、水とか空気以上にいいなぁと思うのは多可町の人たちの姿。知らない人に対しても「おはようございます」「こんにちは」って向こうから挨拶をしてくれるのには驚きました。温かいまなざしを多可町の方は持っていて、それが居心地の良さを生みます。要子さんとも「多可町の人たちは心が豊かよね」と話しているところです。
     心豊かに人に接する素敵な町民性があることを自分たちでは気づいていない感じもまた魅力なんですよね。
     おもしろいのはお向かいのおじさん。「大杉さーん、まだ洗濯物が干してあるよ~。3時過ぎてるよ~」ってピンポンを押して教えに来てくださるの。夕方まで取り込み忘れることもあったからそのお声掛けはありがたいんです。

     海外に長くいて今日本に帰ってくると、日本人の素晴らしさを再認識します。心遣いやちょっとした仕草の優しさに触れるにつれ、そう、これが日本だ!と思います。たとえば、人に物を渡すとき、投げたりはしないでしょ。そんなこと絶対に誰もしない。当たり前に。でも、それが当たり前ではない国はいっぱいあるんです。
     基本的に日本人は親切、思いやりがあって礼儀正しい。その中でも多可町の人はさらに温かい。それに気づけただけで帰国も移住も大成功。ええ、もうとっくに日本とは仲直りできています。

     今ね、ほぼ毎日、いくつものクラスを持って、オンライン授業で日本語教師を続けています。生徒は、アメリカ人、フランス人、シンガポール人、色々。基本的には自宅からネットにつないでいますが、出先からでも、道の駅の駐車場からでもどこからでも可能です。日本語教師はライフワーク。あとは、この色々な可能性のある家を使って何か楽しいこと、人の役に立つようなことをしていけたらいいなぁと思っています。