VOL. 22
辻 朋子さん
地区:中区東安田
人生は紆余曲折、だからおもしろい。移住をして取り組みたかったのは「造り酒屋に生まれた者」としての “自分らしい家業の継承”でした。日本酒米の最高峰「山田錦」発祥の地にご夫妻で居を構え、新しい生き方をスタートさせた途端に新型コロナウイルスの流行、さらに自身は突然の病に見舞われ、「道筋」の立て直しを迫られた朋子さんですが、しなやかに前向きに未来を見つめておられます。
(R3.5.11)
農園「若づる」
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尊い労働を間近に見て育った子ども時代
私は、京都府の京丹波町に生まれ育ちました。実家は『京若鶴』という銘柄の日本酒を製造する造り酒屋でした。造り酒屋というのは工場のようなもので、精米所、洗い場、釜場やビン場など、各製造工程に分かれた建物がひしめき、そこには活気が満ち溢れていました。四六時中たくさんの働く人が出入りをしていて、子どもの頃から私は、大人の人たちに“働く喜び”を見せてもらっていたように思います。
瓶詰が終わりトラックに積み込んで日本酒が出荷されていくのを見送る人たちの笑顔、「造り」の厳しい労働のなかでも笑顔でやり取りをしているおっちゃんたちの声、雪深い地域から出稼ぎをして、根を詰めて尊い労働を提供してくださる姿を間近で見るにつれ、敬意を抱くようになりました。
私の生活圏と酒造りの現場は微妙に重なっていたんです。米を蒸し上げる蒸気がバーッと立ち上る横で私は歯を磨いている、みたいなね。その光景が本当に好きでした。
お酒を買いに来られる方はみんな笑顔だし、家は立ち飲み屋もやっていたので、そこでコップ酒を飲む大人たちの満足そうな顔を日々見て育ちました。酒がもたらす世界は、それは楽しそうに私の目には映っていました。
中学に上がる前に、工場は日本酒からワインの製造に切り替わりました。日本酒の蔵でワインをつくりたいという企業に祖父が蔵を貸すことにしたんです。日本酒は斜陽産業になろうとしていたので、父は食品スーパーの経営も始めていました。 -
理学部卒の芸大生
高校ではひたすら勉強を頑張りましたね。学校生活も楽しかったです。クラスのみんなが温かくて…。学校祭に向けてうちの倉庫にみんなで集まり、発泡スチロールで「自由の女神」像を作ったのはいい思い出です。発泡スチロールを貼り合わせる接着剤を自作したりもして。私、幼い頃から美術と理科が大好きだったんです。中学高校では美術部や化学部に所属していました。
大学は理系。広島大学の理学部に入り化学の勉強をしていました。親元を離れた解放感に浸り、ひたすら自由でした。大学生でいる間はモラトリアム。宙ぶらりんな中、これからどう生きていくか、自分なりに悩みました。就職活動もしたんですよ(笑)。社会とどうつながっていったらいいのか、真剣に右往左往した時期でした。結果、美しいものをつくる仕事に就きたいという思いが強く、学び直すことに決めました。京都市立の陶工訓練校と芸大を受けて、門戸を開いてくれた芸大に入学し、現代陶芸を専門に学びました。
作品は陶器ですが、器ではなくて「オブジェ」。自由な世界の芸術なのですが、その中でも私のつくるものは現代陶芸の域を越えて、亜流、異端となっていました。というのも、陶芸は「土」という素材を焼くものなのに、私は「釉薬(ゆうやく)」のおもしろさにはまり、釉薬だけで形ができないかを追求していたんです。土なしで。大学院まで行きましたが、作家としての評価を求めることはせず、おもしろいからやっているだけ、だったのです。 -
好きなことを仕事にしていく
卒業後はいよいよ就職です。食べていかないといけないし、奨学金で300万円の借金もできていましたから。「美術の先生になろう。これしか生きていく道はない」と思い、ちょうど指導者を求めていた大阪・高槻の養護学校の美術教師になりました。29歳でした。そこは、手を使ってものをつくる「陶芸」を作業学習として取り入れているところだったんです。
入ってみたら、生徒も先生もおもしろい人がうじゃうじゃいて、戸惑いながらもおもしろさと自分が役に立っている実感を得られるようになりました。言語でのコミュニケーションが難しい人たちに、陶芸を通し、さわる・見る・匂いを嗅ぐなど、五感を使った教育活動ができ、芸大で模索していたことがやっと実社会に結びついた気がしました。自分の働きかける対象が、“人を支援すること” にガラッと変わっていったのです。
そこで3年間働いた後、大分に「窯をつくる」修業に出るのですが、その経験も後の仕事の役に立ちました。 -
農業との出会い
実は芸大の大学院時代に、広島大学の後輩と結婚しました。夫は医療の現場で働く人です。私たちは比較的自由な夫婦なので、それぞれがそれぞれの仕事をしています。私一人でとある企業の「阿蘇くじゅう国立公園に自然学校をつくる」といったプロジェクトに数年間参加したこともありました。
プロジェクトのお題は「現地の人的資源と自然環境を組み合わせてどういう教育プログラムができますか?」というものでした。九重町(ここのえまち)は標高が高く、気候は東北並みに寒いところです。そこに活火山がもくもくと噴煙を上げているような町。温泉はいたるところに沸いています。この地域には「苗代に温泉を引いて温めながら稲を育てる伝統的な農法がある」と聞いた私は、「その方法を地域のお年寄りに先生になってもらって、地元の子どもたちに教えてもらおう!」、そう企画しました。それが35歳のときです。
初めて私に「農業」の経験が加わりました。米農家さんと出会って、親睦を深めて、その方たちが自田の米で「どぶろく」を作っておられることも知りました。“造り酒屋の私”の血が「これや!」と騒ぐ、今につながる大きなヒントをもらったのはこのときでした。
プロジェクトが終わり、さて、この先の仕事をどうしようかと思ったのですが、私が社会の中で生きていくキーワードは、そのときはまだ「美術」でした。舞鶴で再び養護学校の美術の先生になりました。
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「夢をつかめ!」
その後、夫が40歳にして大学に入り直すことになり、今度は私たち夫婦そろって和歌山の海南市へと引っ越すことにしたんです。新たな挑戦に向かう夫を助けたい、支えようと思っていました。
海南では昭和初期に建てられた、お金持ちの別荘を貸していただき、そこで暮らしました。
その家にいると、建てた大工さんが喜んで造っているのがひしひし伝わってくるんです。部屋ごとにデザインが違う天井、建具も素晴らしい、洋間のステンドグラスもそれは見事で。この家に住めたのは人生最大のラッキーだと思いました。ただ長年放置されていたので、獣の入った跡があるし、何より家の周りを何本もの大木が囲んでしまっていてジャングル化していたんです。ここに住むには木を1本1本切り倒していくしかなかったんですが、私が3年近くかけて伐採しました。チェーンソーを買って、スチールのいいヤツをね。切った木をズリズリ引っ張って軽トラに積んでクリーンセンターまで運んで。そんなことを繰り返していたら、そらぁ、身体をこわしますよね…。
家には畑がついていましたので自分たちが食べる分の野菜を育てて、ご近所の方と畑談義をし、とても素敵な暮らしをしました。夫の大学での勉強も終わり、和歌山を去る日が来たとき、ご近所の方が「夢をつかめ!」と、拳を空に突き上げて送り出してくださいました。そのシーンを思い出すと今でも涙が出ます。
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これからは農業がしたい! 実家の原点に関わるためにも
私たち夫婦が次に向かったのは兵庫県の加西市でした。ここで夫が新しい仕事の基盤を築く間、私は篠山の農家さんに通い、農業研修を受けることにしました。阿蘇くじゅうで出合った米づくり、海南でしてきた畑仕事を通じ、「これからは農業がしたい!」という気持ちが私の中に固まっていたんです。その頃、実家近くに大きな道の駅がオープンすることになり、妹のパン屋に出店要請をいただいたことも私の就農のきっかけでした。私が作る黒豆や夏野菜をパンに焼き込みたい。「造り酒屋の仕込み水で炊いた黒豆です」みたいなストーリーも添えてPOPにして、陳列はああしてこうして…、そう考えるのが楽しかったです。
私にとって「実家」の存在は大きいのです。家業がなりゆかないさまを肌身で知っているので、私にできる協力の仕方を考えたら、私がつくる農的な素材が、今はパン屋になった実家の仕事を助けることにつながるのではないかなと。
そしてさらに家業の原点である「日本酒」に、私なりのやり方で関われる何かはないかと模索するようになりました。実家では父亡き後、もうお酒はつくっていないけれど、原料になる酒米なら、就農すれば私につくれるかもしれない!と。 -
コロナ渦に山田錦発祥の地・多可町へ移住
「山田錦」という酒米の存在を知ったのは多分大人になってからです。山田錦は吟醸以上のお酒になる高価な酒米。私には手が出せない、遠い存在のお米と思っていましたが、篠山の農業の師匠のところで米づくりを学ばせてもらい、兵庫県の無農薬米づくり講習会に何回も参加し学習を深めていくうちに「もしかしたらできるかも!?」と思うようになりました。
県の農業改良普及センターに「有機で山田錦をつくりたい」と相談したら、「有機で山田錦をつくっている地域は多可町しかない」と教えてもらえました。まだ加西に住んでいる頃のことです。
多可町中区坂本の農家さんを紹介してもらい、有機の山田錦栽培を習えることになりました。「私もこの多可町に住んで自分の酒米をつくりたい」、そう思いながらの修業。思いは増していくばかりでした。
その頃からよい酒米をつくりたいと強く願っています。落ちていく『京若鶴』をどうすれば求められる酒に変えられるか、40年間日本酒のあり方が変化していく過程を傍らで見てきて、高い品質でなければ飲んでもらえないと思っていました。自分の酒ではなく、ひとに選んでもらう、喜んでもらう酒です。そのために必要なのはよい原料米。農薬を使わない、身体にも環境にも負荷のかからない農法でつくられた、高品質の酒米。多可町の師匠たちはその米づくりを実現されていますし、全て学んで自分のものにしたいと思いました。
師匠たちは妙に熱心な私に戸惑いながらも親切に教えてくださいました。たとえばある師匠は、農業が儲からない現実と、それはなぜなのかを包み隠さず明らかにしてくれました。機械導入費用がいくら、肥料代がいくら、生産物は等級ごとに値づけされていくらで売れる。結果、手元に残るのはこれだけだよと。また、ある師匠は、農業機械にはまるで縁がなく育った私に、まだ移住が決まっていないうちから、トラクターで圃場を耕うんする手順を実地で教えてくださいました。私の相手をすることで自分たちの仕事時間が減るにも関わらず、初歩の初歩につきあってくださったのです。多可町に住む人に魅力を感じました。
そして実際に多可町の東安田に田んぼ、畑、家屋を得て、2020年(令和2年)のお正月に夫婦でここに移り住みました。農業は私の仕事。夫は夫で仕事を持っています。
「東安田」という地域こそ山田錦発祥の場所。この家は山田錦の元となる「山田穂(やまだぼ)」という品種を見つけた「山田勢三郎さん」の子孫の家だとも後で知りました。
念願の土地で有機農業者となり、さぁ、おいしいお酒になるお米をつくるぞ!と情熱に満ちて移住してきましたが、コロナショックで日本酒の需要は減る一方。これだけ酒が売れない世の中になり、山田錦での酒づくりを市場がそれほど評価しなくなってしまったのなら、今、自分がすべきは何だろうと、道筋の立て直しを図ることにしました。
今私はお酒のためのお米ではなく、主食用のお米「きぬむすめ」を主につくっています。「おいしい!」と評価してくださった方が赤ちゃんのお食い初めにも使われて、さらに、このお米を日々食べるときに私のことに思いをめぐらしているとも言ってくださいました。こんな深いご縁、お米を介したやりとりができることに感謝しかありません。
山田錦の米粉を使ったお菓子作りや酒粕を使ったレシピ開発も仕事として取り組んでいます。「こうしたらおいしいやろなぁ」を考えるのは、それは楽しい時間になっています。
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一緒に田んぼしませんか? 田んぼも知識もノウハウもすべてシェアします
実は、今年(令和3年)2月、足腰に強い痛みとしびれが起こり、立っていられなくなりました。「腰椎すべり症」という、腰の骨がずれてしまう病気になってしまったのです。医師からは「進行するだけで治らない。ずれた骨は元に戻らない」とも言われ、泣いてばかりいました。「よっしゃ、今年は躍進のとき」と思っていたのにいきなり農業どころではなくなってしまったんです。お先真っ暗でした。
でも、私はとても幸運でした。こうなる前に、無農薬の田んぼを手伝ってみたいと申し出てくれたグループがあって、その中に「すべり症で20年間苦しんだ」とおっしゃる方がいらしたんです。その方が20年間試したありとあらゆる方法を教えてくださって、「すべり症は治らないけれど、やり過ごす方法はある」と知りました。
ほかにも「農業、手伝ってあげるよ!」と言ってくださる方々が何人も現れて、本当に救われました。私も、病気以前の身体には戻せないけれど、やりようはきっとあると思って、スマート農業の機材を使うなど、身体を痛めない方法を探っています。
今までは一人で耐えるように頑張ることがいいと思っていましたが、「もうそのやり方アカンよ」と身体に言われてしまった以上、これからはもっと人さまの力を借りたいとも考えています。「自然環境の中で働きたい」「自分で自分の食べるものをつくりたい」「ときどきでいい、緑豊かな中でリフレッシュしたい」「有機の米づくりをしてみたい」、そういう方、一緒に田んぼ、しませんか?
太陽の光、風の匂い、水の音、虫の声、稲の穂の香り…。田んぼでは、からだ全体で自然を感じることができます。私は、田んぼにいると心が落ち着いて元気になります。自然からエネルギーをもらっていると感じるのです。そして、田んぼのお世話をすることは、自らの手で自然に働きかけ、新しい命を育てる行為です。田んぼに水を引くと野鳥が集まってきてカエルが鳴き出す。自分がこの生き物たちの生きる場所をつくっている。たくさんの命とともにいることを実感します。今ここに生きていることを知ることができます。多分、そのおもしろさ、喜びを味わうことが農のある暮らしの醍醐味なんだろうと考えています。
もし、自然とともに生きる暮らしがしたいと望んで「どうしたらできるんだろう?」とお思いなら、私に声をかけてください。
私が得てきた知識、ノウハウ、すべてオープンにします。機械も道具も田んぼもシェアしましょう。私に与えてもらったことを他の人にも伝えて、返していきたいと思っています。
私が暮らす東安田の人々はとてもフラットな方が多いです。ここに住むと決める前に村の役員の方とお話しする機会があったのですが、「ここは山田穂が生まれ、広まっていった場所。山田錦の発展は、山田勢三郎がかつてその穂を一人で囲わず皆に分け与えたからだ」とお話ししてくださいました。惜しげもないシェア精神が今も息づく村です。
ここで私は自分ができる米づくりをしていきます。いつの日か「日本酒『京若鶴』をもう一度」という思いはありますが、銘柄の復刻そのものが目標ではありません。飲んだときに感じるおいしさが明日への希望になるようなお酒、そのお酒になる酒米を自田でいつか収穫することを目指します。
京丹波の酒蔵を引き継ぐ者として、次の世代に渡すために自分にできることを考えながら、ここ多可町で暮らしていきます。
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