VOL. 25
山本 和樹さん
地区:八千代区大和
町内の様々な取り組みを積極的に行い、まちの中にこれまでに無かった新しい風を吹かせている山本さん。八千代区大和にある滞在型市民農園「ブルーメンやまと」の管理人という立場であったことからいろいろな方と巡り会い、今では「ブルーメンと愉快な仲間たち」というグループを作って活動されているかたわら、多可町消防団の団長という重責も担っておられます。このまちで生まれて、このまちで育った山本さんに、多可町の魅力についてお話をうかがいしました。(R4.3.6)
多可町消防団 団長
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大工の家系に生まれて
僕はもともと多可町(旧八千代町)生まれで、親父もお爺ちゃんも曾お爺ちゃんも大工の家庭で育ちました。お爺ちゃんは家の建築だけでなく近くの神社やお宮さんなどの修繕をしたりしていて、誇らしいお爺ちゃんでした。僕で四代目なんですよ。大工の家に育ったので、学校から帰ってきたら遊びに行くのは親父の仕事場で、木の匂いを嗅ぐとホッとしたものです。
僕が小学校低学年のときに家が火事になって加西から古民家を移築したんですけど、当時の大工さんは、解体、建築、設計、左官、一式できるいわゆる職人でしたから、それも親父が建てました。昔の家は薪でお風呂(五右衛門風呂)を焚いていたので、火がつくと一気に全焼してしまって、古い写真とか当時のものもほとんど残っていないんです。ただ火の中で足が動かなくて、親父にほっぺたを叩かれて逃げ出したのを覚えてます。
ただ厳しい親父でね、よくお酒を飲んでいたのですが、酔った親父の姿は好きではありませんでした。でも、そんな環境で育ったので、中学を卒業したら当然後を継ぐものだと思い込んでいました。当時は中学校を出たら他の大工さんのところに4、5年修行に出るものだったのでそのつもりにしていたら、親父が「今からはもう個人の大工なんて無理やから、とにかく進学して高校へ行け」と言ってくれました。
後から考えると、確かにそれが正解だったんです。親父は50代で亡くなったんですけど、晩年はもう個人では仕事が無くて、ハウスメーカーの仕事をしていました。そこで若い子たちと一緒に作業をするわけですけど、やっぱり大工の仕事とはいえ全然違うんですよね。機械の使い方、建物の建て方、そもそも考え方が違うんです。なので物足りなくなって、辞めては違うメーカーに行ったりを繰り返していました。そうこうしているうちに亡くなってしまったんです。
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人前で話をするのが苦手だった子供時代
僕は、今でこそこうして人前で話をすることに抵抗がないというか、むしろよく話す方だと思うんですけど、実は小学・中学校の頃は人前で全然しゃべれなかったんです。母親が用務員として働いていたので、小学校時代は用務員室が僕の学校みたいなものでした。もう本当に人前で話すのが苦手でしたね。クラスのルールで1日1回は発表をしましょうという決まりができたのも、僕が原因かなと思いました。ですから今、小学校や中学校の同級生に会うと「変わったな〜」って言われますね。
中学校ではテニス部に入って、1年から順調にいろんな大会に出て勝たせてもらったので、それでちょっと天狗になっていた部分もありました。だけど、中学3年の最後の大会の前に、5、6人でちょっと悪さをして、先生に「お前らもうクビや」と言われて、最後の大会には出させてもらえませんでした。反抗期やったのか、僕だけ謝りに行くタイミングを逃してしまって、3年間練習してきて最後の大会に出てないんですね。だから、最後はブラスバンド部所属でした。そういう意味では、学校自体が苦手でしたし、大人しくてちょっと変わった子という印象だったと思います。
当時の多可町は、今に比べると子どもの数も多かったし、夏祭りや秋祭りなどもすごく活気があって、今でもよく覚えてます。経済状態も良かったんでしょうね。僕のお婆ちゃんも播州織の糸繰の仕事をしていましたし、集落内にも10軒以上播州織関係の工場があり、ガチャマン時代ではなかったけど、ガチャン、ガチャンという音が夜遅くまでしていました。播州織関係か、もしくは材木関係の製材所なんかもたくさんありました。間違いなく織物と林業がこのまちを支えていたんでしょうね。そういう意味で、祭りや行事ごとにも威勢があったんでしょう。
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就職でまちを出る
高校は西脇工業高校に進んで、就職のときに先生に「関西電力に行けるぞ」と言われたんですが、大阪の豊中市にある印刷会社に就職しました。それは、ただ単に関西電力の求人票をめくったら、その次にそこの会社が載っていたからというだけの理由です。印刷に興味があったわけでもなんでもありませんでしたが、なんせ先生の言うことの逆のことばかりしていましたね。たまたま選んだ会社が大阪だったということもありますが、親父の側を離れて家から出たいという気持ちもどこかにあったんでしょうね。
小中高とおとなしい方だったのに、就職をしてやんちゃな友達と出会って夜中に走りに行ったり、ちょっと悪いこともしてみたりしてましたね。妻とはその会社で知り合ったんですが、後で聞くと、周りから「山本さんは遊び人やから付き合ったらあかんよ」って言われていたらしいです(笑)。
会社では、それまで勉強も何もしていなかったんですけど、なぜかデザイン(版下)の部署に配属されました。時代はちょうど手作業の印刷からデジタル化へ移行し始めたころで、日本で初めて毎日新聞と富士通、ドイツの会社とうちの会社が提携してコンピュータのシステムを作るチームが編成されたんです。僕はといえば、昼間は遊んで夜は車で走りに行って会社にろくに行ってなかったんですけど、会社で実力テストが実施されて社長を始め全社員受けたんですけど、なぜか僕が上から4番目の成績やったんです。それで上位5名は強制的にそのチームに配属されて、1年間、富士通にコンピュータの勉強をしに行かされて、慣れないネクタイを締めて電車で梅田まで仕事に行きましたね。
仕事は大変でした。残業は200時間を超えていたと思います。当時の日本には無いものを作ろうとしていたんですからね。月曜日にタイムカード押して、ずっと仕事をして翌週の月曜日にタイムカード押して帰るというような生活でした。それが1年、2年と続くと自然と僕が責任者になって、昼間は遊んで全く仕事してなかった人間が、20歳くらいで主任という肩書きで働いていました。
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妻との出会いと別れ
妻は、僕が入社して3年後に入ってきたので、当時は上司と部下という関係性でした。篠山出身で、きっちりデザインの勉強をして入社してきたので、雑誌の表紙や服飾関係も得意でした。
僕は、活版印刷からコンピュータへと移行する最先端の仕事をしていたのですが、全く連絡のなかった親父がふと電話してきて、「帰ってきてくれへんかな…」って弱気なことを言ったんですよ。もともと長男なんでいつかは田舎には帰るつもりだったし、とても良い社長の元で働けたのですごく残念でしたが、これは面倒みなあかんかなと思って帰ってくることにしました。
妻とは22歳のときから付き合ってたんですが、僕が27歳のときに結婚しました。田舎に帰って仕事について1年経ったら結婚しようと決めていて、僕が田舎に帰るときに妻も実家の篠山に帰ってきていました。多可町と篠山だと近いんで助かりました。それで1年後、僕が27歳の時に結婚しました。
こっちに帰って来てから、最初は印刷会社に就職しましたが1ヶ月で辞めました。新入りの僕が朝に鍵を開けて出社し、夜に締めて帰るようなところでしたし、あまりやる気が見えない会社だったんで…。それで、次に声をかけてもらったのが有線放送の会社だったんです。技術者を募集していたのでたまたまスーツで出社したら、「ちょうど営業が辞めたので営業に回ってくれ」と言われ、やったことのない営業に回ることになりました。そうしたらどんどん成績が伸びて、仕事が取れるんです。当時、有線放送というのは多可や西脇ではまだ珍しかったんですね。それで1年後に三木放送所の所長を任され、その後姫路支店長、西脇支店長などを経て40歳くらいで退職しました。
その後はカラオケのレンタルの会社で1年お世話になって、西脇、加西、小野なんかのスナックなどに400件ほどの顧客を持つほどになりました。でも、家庭をかえりみない生活でしたので、子どもたちの運動会や行事ごとには全然行けませんでした。なにしろ、朝8時から夜中の2時、3時まで働いてましたから…。
若くして最愛の妻を亡くしました。子どもたちはまだ小学4年生と6年生でしたから、実家の僕の母にはずいぶん助けてもらいました。妻とは手をつないで寝るほど仲が良かったんですよ。妻と付き合ってからは、僕は本当に変わりました。大好きでした。なので、その死を受け止めるのには時間がかかりました。まあ、人生何がどう変わるかわかりませんよね。
幸い子どもたちは元気に育ってくれて、娘は今では県立高校の事務員をしています。結婚して丹波に住んでいますので、近くでありがたいです。
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人との巡り合い、恵まれた関わり
僕は出会いに恵まれたと思っています。本当に多くの人に助けられました。まだ大阪でいた若い頃なんか給料安いじゃないですか。給料日前の1週間なんて、もうお金がないわけですよ。そしたら同僚2、3人とその地域のお弁当屋さんの前に立つんです。最初は不審がられるんですが、3日も立つと「どうしたんや」と声をかけてくれて、残ったお弁当をくれるんです。そうして生活していましたね(笑)。
多可町に戻ってきてからもいろいろな人と巡り会い、今は「ブルーメンと愉快な仲間たち」というグループで活動をしています。忙しくなったけど楽しいこともたくさんありますし、日々、勉強させていただいてます。若いときには仕事ばかりしていましたが、今は好きな音楽を聴きに行ったり、最近できた孫の写真を見たりしてのんびりさせてもらってます。
キッズランドの制服は妻がデザインしたものが今も使われてると思うんですけど、絵もいろいろ彼女が描いたものが残っているんで、それを表に出したいなという思いがありました。でも、妻の作品だけ発表するのは寂しいので、『夫婦展』ということにして、僕も紙粘土でいろいろな人を型どって人形を作って、「ブルーメンと愉快な仲間たち」の展示会で発表させてもらいました。それも、「ブルーメンと愉快な仲間たち」という出会いがあったからできました。それまでは、妻が亡くなったことに触れたくないというか、なかなか現実に向き合うことができなかったのですが、ここ2、3年で気持ちが少し変わりました。
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自分がこのまちで出来ること
僕はきっとどこにでも住める人間だと思います。そして、どこに住んでいても、きっとその地で何かしらの活動をしていると思います。今、こうして多可町に戻ってきて、まちの消防団長もやらせてもらっていますが、多可町というまちにはとても愛着があります。消防団長をして分かったことなんですけど、今の20代、30代の子たちって純粋な思いを持ってるんですよ。すごく郷土を愛していたり、近くのお爺ちゃんお婆ちゃんのことを気にしていたり、地域を守りたい、祭りを守りたい、まちを盛り上げたいという思いを真剣に持っている。「今の若いもんは…」ってよく言われますが、そうじゃない。内に秘めていてあまり口に出しませんが、地域のために何かしないといけないという地域愛はすごく持っているんですよ。だから、僕の役割として、それを自然に表に出せる環境を作ってあげたいと思っています。人口規模から言っても、自然風土から言っても、多可町だったらそれができると思うんですよね。例えば、たかテレビあるじゃないですか。それの取材とかでも、彼らはカメラを向けられてもその場ですぐに自分の思いを飾らずに話をすることができるんですよ。そんなの日頃から考えてないと言えないでしょ。それだけ地域のこと考えてるっていうことなんですよ。僕が団長になってから女性隊員も募集するようになって、すごい改革をしているように思われるんですけど、僕には女性とか男性とかの区別がないので普通のことなんですけどね。
今からのまちづくり、多可町の良さを再認識していくには、若い子たちの熱い思いをどう吸い上げてあげるかだと思います。900人もいる消防団員全てを知るのは難しいことですけど、幸い僕は気軽に若い子たちと話せる性格なので助かってます。昔から若い子の力ってすごいなって思ってたんですよ。だから本気で心の内を聞いてあげたい、聞けるような雰囲気にしてあげたいですね。若いですから、右向いたり左向いたり、ときにはずっこけたりもしますよね。でも、熱いものを持っているんです。それを大切にしてあげたいと思います。消防だけでなく、誰もがゆったりとゆるい関係でいい、普段の生活や文化・芸術などいろんな形でつながって、みんなが笑いのたえない多可町。これは絶対に出来る町だと信じてますよ。