VOL. 10

秋山 英紀 さん&秋山 かおりさん

地区:八千代区俵田

 東京で漫画家として活躍しておられたひできさんですが、妻のかおりさんの化学物質過敏症という病気の療養のために、ひできさんの実家、八千代区俵田に戻って来られました。今でこそ、ネットがあれば都心部での仕事も地方でできますが、東京で締め切りに追われながらの生活を送ってきたひできさんにとって、仕事場から遠く離れた場所への帰郷は大きな決心が必要だったとのことです。また、かおりさんの病気は現代社会の中では周囲の理解を得にくく、原因となる物質から完全に隔離することは難しいため、さまざまな困難を抱えた中での生活を余儀なくされています。
※かおりさんは長時間ご一緒することができませんでしたので、主にひできさんに話をお聞きしました。(H30.09.10)

あきやまひできさん(漫画家)
秋山かおりさん

  • 絵画の道を目指して

    ひできさん:多可町の俵田は僕の故郷で、子どものころはずっと川と山にいました。小・中・高校と多可町で育って、それから西脇で播州織のテキスタイルデザインの仕事をしていました。僕は中学生のときから油絵をやっていたので、高校生のときにはどんな絵を描いたら賞が取れるのかっていうのが何となく分かっていました。なので、油絵の賞はたくさん受賞していました。いくつも得意なことがあると迷うのかもしれませんが、僕は学校の成績も美術だけが突出していたので、素直に画家の道に進もうと思って迷いはありませんでした。
     とは言っても、本当は僕は魚が好きなので川漁師になりたかったんですよ。でもそんな職業を目指す人なんていなかったし、まず川漁師という職業自体がここらへんでは無かったですね。なので中学生ぐらいでその道は諦めて、得意な美術の道を選びました。

     そのころは田舎は嫌いだと思いこんでいて、都会に憧れていましたね。やっぱり僕にとっては東京が世界の中心だという思いが強くて、どうしても東京に行きたくて、20歳のときにリュックサックを背負って歩いて東京へ行きました。両親に上京を反対されていたので、とりあえずバスで三木市まで逃げたんです。で、そこからヒッチハイクもせずに東京まで歩いて行きました。「東京ってうちからどのくらい遠いのかな〜」って思って、それを実感したかったんですよ。途中、野宿したり旅館でシャワーを浴びたりして、20日間ほどかかりました。
     僕が出発したのは7月8日だったんですが、僕の他にも2、3人歩いて東京を目指している人がいました。1日30キロずつ歩いていたので、体力を使うとこんなにもお腹が減るのかと実感しました。名古屋を通過するときに3、4日大雨洪水警報が出て雨の中ずっと歩いていてたんですが、カッパを着ていてもびしょ濡れになって足もふやけてきたんです。そんな中の30キロですから、豆ができてそれが潰れて足が血だらけになりました。痛かったけど楽しかったですよ。旅人にはみんな優しいですし。
     そうやって結果的に東京に出たわけですが、絵描きになるなら美術の盛んなパリやニューヨークへ行くという道もあったわけです。もしパリに行っていたら漫画家にはなっていなかったでしょうね。


  • 漫画家としてデビュー

    ひできさん:はじめは絵描きになりたくて上京したんですが、アルバイトをしながら雑誌のカット(挿絵)を描く仕事をしていました。これが結構な収入になったので、7年間ほどその仕事を続けました。その後、絵だけでは満足できなくなってきて、物語をつけたいと思ったんですね。
     もともと14年くらい漫画の新人賞にも応募していたんですが、全然引っかからなくて…。34歳のときに、「もう賞のことは考えずに描こう!」と思って描いたもので賞を取ることができました。普通はそこから賞金稼ぎに移るんですが、僕はもう34歳になっていたのでそんな余裕はなく、作品を直接雑誌社へ持ち込んだんです。それから1年ぐらいかかってようやく連載の仕事が入ってきました。なので35歳でデビューでした。親と喧嘩して上京したわけですから、デビューもできずに帰るわけにもいかなかったので本当に嬉しかったです。

     僕は今までに漫画を25巻出しているんですが、一番最初の漫画は原作者が別の方で、主人公が漫画家になる少女の話でした。週間連載だと毎週18ページ、隔週連載だと24ページ描かないといけませんでした。初めの作品は双葉社の「漫画アクション」という雑誌に掲載され、それから小学館の「ビッグコミックスペリオール」でずっとやってました。ほとんどの人は1巻出して終わりというのが多くて、2巻目を出すっていうのは漫画家にとってはなかなか難しいんですよ。僕の場合はデビュー作が10巻出て、その後2年間くすぶっていましたが、またその後12巻出しました。漫画って、出した巻数で数えるのが慣例なんですよ。
     デビュー作の後、たまたま僕の漫画を好きだという編集者が小学館にいて声をかけてもらうことができたのでラッキーでしたが、編集者によって漫画家の将来は大きく変わるんです。


  • 漫画家での生活

    ひできさん:漫画家って社長みたいなもんで、連載が始まるとアシスタントを何人か雇うわけです。優秀な人を選んで働いてもらって、お給料を出さないといけないので生活は激変しました。仕事があるっていうことは良いことなんですけど、労働時間が長いので常に眠いんですよ。アシスタントはあくまでアシスタントなので、人物以外の背景の建物とかを描いてもらうだけです。なので、趣味の釣りにも行けなくなりました。小説の場合だと、100ページのものを書くのに1ヶ月もあれば書けると思うんですけど、新人賞への応募用の漫画の場合だと、一人でアシスタントなどもしながら30ページ描くと、3〜4ヶ月ぐらいかかるんです。読むのは5分位で終わりますけど、生み出す側の労力はホントにすごいんですよ。
     漫画の新人賞などは、応募総数が大体100作品ぐらいでしたね。東京ではアルバイトしている人の何人かに一人は小説家を目指していたり、写真家を目指していたり、そんな夢を持った人がたくさんいました。例えば東京藝大を目指して10浪してる人とかもいましたよ。東京は何かを目指すには良いところですが、生活するのが大変なのでその両立が結構きつかったですね。東京にいるころは自然豊かな田舎に帰りたいということを考える余裕さえ無かったけど、釣りは好きだったので海釣りにはよく行ってました。もう前の日には興奮して寝られなくてね。もともと捕獲欲求が結構強いほうなので、そんな状態になっていたのかもしれないです。


  • 妻の変化

    ひできさん:妻に出会ったのは僕が38歳のときで、当時、彼女はネットアイドルだったんですよ。それで彼女はネットに自分で書いた文章を載せていて、僕がそれに興味を持って話をするようになったのがきっかけで結婚しました。その後、妻が化学物質過敏症を発症して都会には住めなくなったので多可町に帰って来たんですが、そのころにはネット環境さえ整っていれば原稿を送れるようになっていましたので、どこででも仕事ができる状況で助かりました。そうじゃなければ、妻の調子が悪くても東京を離れることは難しかったと思います。

    かおりさん:私の実家は、愛知県の豊田市です。子どものときから食品が好きで大学を出てから食品会社に務めていたんですが、仕事中に吐き気がしたりフラフラしたりするようになったので会社を辞めることになりました。そのときはまだ化学物質過敏症とは知らなかったんですが、たぶん子どものころからシックハウス症候群だったんじゃないかなと思います。当時はシックハウス症候群も化学物質過敏症という言葉さえ知らなかったですし社会的にも全然認知されていない病名でしたので、周りの人の理解が得られなくて「精神的におかしい」と言われたりしていました。給食を食べるとお腹が痛くなったり、ファストフード店なんかでは食べてもすぐに吐いてしまったり…。コーヒーショップのチェーン店があったりすると、30m位手前からもう近づけない状態で、私自身も精神的におかしいんだと思いこんでいました。
     でも、後にきちんと専門のお医者さんから化学物質過敏症という診断をしてもらえて、「やっぱり!」って納得できることがたくさんありました。食品のことが好きなのに、食品を保存するためにいろんな添加物などを入れたものが世の中にたくさん出回っていて、結局、好きな仕事も続けられなかったのでちょっと複雑な気持ちですね。

    ひできさん:結婚したときは、まったく病気の兆候はありませんでした。光が当たると目が痛いと言っていたんですが、そんなに悪化するとは思っていませんでした。妻自身もまさかそれが病気だとは思っていなかったようです。添加物とかもまったく受け付けないので、化学物質過敏症って社会的にも嫌われる病気なんですよね。企業としては都合が悪いですし、世間にあまり知られてない病気なんです。妻がその病気だと分かるまでには、すごく時間がかかりました。
     3年前に「かびんのつま」という漫画を描いたんですが、ネット上でのバッシングがすごかったです。妻のことを赤裸々に描くことにはなりましたけど、作品が売れることによって全国にたくさんこの病気で苦しんでいる人がいることを知ってほしいと願っていました。症状の軽い人も入れると、だいたい100人に1人いるといわれているんです。だから決して少ない数じゃないんですよ。


  • 安心・安全な食べ物を調達する

    ひできさん:妻に農薬や添加物のないものを食べさせるために、野菜も作るようになって釣りにも行くようになりました。無農薬の野菜って、とってもクリーンな味がするんです。後で胃もたれしないとか寝起きが良くなるとか、食べ物によって生活も変わりましたね。もともと畑仕事や釣りは好きだったので、自分たちで食べるものは自分で手に入れたいという願望が出てきたんです。お米はまだ作っていないので自給率は低いんですけど。

    かおりさん:今は主人が食べるものを調達してくれていますが、結婚したときはそういう人だとは思っていなかったので、こうして自給自足の生活ができるとは思ってもいなかったです。
     こっちに来てテレビでお料理番組なんかを見てると、季節外れの野菜を使ったお料理を作っていたりしてすごく違和感を感じるようになりました。東京ではなんとも思わなかったですけど、ここでは旬のものしか口にしていないので、野菜の入れ替わりの時期である4、5月、9月などは野菜を食べられないこともあります。そういうときは、きのこを食べたりしています。もともと料理は好きだったんですが、ガスコンロの熱もダメだし電子レンジの電磁波もダメなので、今は野菜を切ったりオーブンに入れるだけでできる料理しかできないんです。
     昔はエレクトーンをやっていて師範の免許も持ってるんですが、電磁波の影響でエレクトーンが弾けなくなったので今はピアノを毎日のように弾いています。窓を開けて弾いていても誰にも文句を言われないので、とても気持ちが良いんです。
     でも、太陽の光がダメなので昼間に外に出ることができなくて、こっちに越して来て5年くらいは自分がどんなところに住んでいるのかさえ分かっていませんでした。ある雨の日の夕方に桜を見に連れて行ってもらったんですが、そのときに初めて自分が住んでいる地域がどんなところか知りました。田舎の景色も好きですけど、都会に住めないことが悲しいな…と思うときもありました。

    ひできさん:都会で過敏症になっている人はかなり辛いと思います。だけど、田舎に行ったからといって必ずしも良いとは限らないんです。アスファルトは都会でも田舎でも道路に敷き詰められていますし、田んぼには農薬が撒かれています。農薬の濃度も数年前に比べるとかなり上がってますので妻は田んぼに近づくと苦しいと言っています。ただ、農薬って空気より重いので僕たちが住んでいる高台、さらに妻は2階に住んでいるので影響が少ないんです。こっちに帰ってきても、農業を仕事にしようとは思わなかったですね。漫画家としての仕事もありましたし、農業の収入で食べていこうと思えばかなりの広さの畑がいりますので…。
     なので、とりあえず単価の高いものを作ろうと思いました。まずは蜂蜜。全く経験はありませんでしたが、経験のある同級生に一から教えてもらって養蜂を始めました。ネット上で欲しいという人にだけ販売をしていますが、去年は40キロ取れてあっという間に完売しました。その他、鹿や猪の1頭売りをやっています。販売先は主に東京ですね。こっちに帰ってきてから8年ぐらいになりますが、鹿や猪を捕りだしてもうそろそろ500頭くらいになります。ウナギも捕っていますが、来年ぐらいには売れるほど釣れるようになれば良いなと思っています。醤油は鮎やエビ、カニ、イワシなどを使って自分で作っていますが、米や豆、オリーブオイルなどは買っています。油を作るのはちょっと難しいんですよ。オリーブの木を植えても鹿に食べられてしまいますので。
     最近になって、フェイスブックでウナギの穴釣りで立派に生計を立てている人がいるのを知って、子どものころに憧れていた川漁師の道を追求したいなという思いが出てきました。妻に自然な食べ物を食べさせたいという思いもあったので、今はウナギの穴釣りもやっています。川の中で首まで水に浸かってウナギの穴を探すわけですのでなかなか大変ですが、ナイフ1本あれば食べていけるという自信はありますね。スッポンも捕って売っています。スッポンってしばらく泥の中で眠らせておくと格段に味が良くなるんですよ。そんなことも、実際にやってみて分かることとがたくさんあるんです。
     猪をくくり罠で捕るっていうのは、基本的には不可能なことなんですよ。猪って犬の何倍も鼻が利くし、地面の下に埋め込んで隠してあるくくり罠が全部見えてるんです。それを如何に踏ませるかっていう駆け引きなので、ずっとそのことばっかり考えていてやっと1頭、2頭と捕れるようになりました。3年前に3頭、2年前には7頭捕れました。そして去年の猟期で13頭捕らえることができるようになりました。
     山菜採り、きのこ狩り、渓流釣り。この3つが一番危険なんです。「あそこできのこが採れるぞ」「こっちでこんな魚が釣れるぞ」と聞くと、後先考えずにどんどん進んでいってしまって、帰って来れなくなるんです。それくらい、人にとって何かを捕るってことは魅力的なんですよね。


  • 多可町での暮らし

    ひできさん:こっちでのライフスタイルはまだ模索中です。妻の病気が発端で多可町に戻って来ることになりましたけど、結果的に子どものころにやりたかったことができている状態ですね。鹿や猪、スッポンなどいろんなものを捕りますが、ウナギ釣りが一番おもしろいですよ。生態も神秘的ですし捕るのも難しいので、捕まえたときはすごく嬉しいです。海ではサビキ釣りでアジやイワシをキロ単位で釣ってきます。僕たちの場合は趣味じゃなくて、「食料」として確保しないといけないんで必死なんですよ。多いときは5キロ以上釣ってきます。釣りっていうより漁をしている感じですね。食べたり、売ったりすることが目的なので。無農薬野菜を作ったりきのこを採ったり、猟をしたり魚を釣ったり、蜂蜜を取ったり…。今の僕は、天然食材屋さんみたいなものですね。

    かおりさん:多可町に来て、これでも症状は随分回復しました。ひどいときはカーテンの隙間から入る光だけで火傷をしていたぐらいですので。ここの集落は、初夏にはホタルがあちこちで飛ぶくらい水も空気もきれいなので、私の症状も年々良くなっていると思います。

    ひできさん:東京から離れても漫画の仕事もできているし、安全な食材も調達できているので今の生活には満足しています。ちょっと都会に出ようと思っても、多可町は田舎といっても比較的便利な場所なのでそれほど困ることはありません。一つひとつの食材を手に入れることはそう簡単ではないですけど、諦めないことですね。そうやって今の生活を楽しんでいます。次の漫画のネタにもなりますしね。次回作では、川漁師のウナギ釣りのこととかを漫画にできたら良いなと思って計画中なんです。