VOL. 9

中尾 和義 さん&中尾 眞理子さん

地区:中区安楽田

 3年ほど前、大阪の堺市から眞理子さんのご実家である安楽田に引っ越してこられ、ご夫婦でオーガニック野菜の栽培に励む中尾さんご夫婦。冬でも畑に出るほど畑仕事が大好きで、自家製のピーナッツを作ったり、お味噌を作ったりとまさにスローライフを楽しんでおられます。
 平成30年、「多可町オーガニック・エコ農業をすすめる会」を立ち上げ、オーガニックの産業化に向けた歩みを始めています。(H30.03.07)

中尾 和義さん(多可町オーガニック・エコ農業をすすめる会・事務局長)
中尾 眞理子さん

  • 昔はもっと自然がたくさんあった

    和義さん:生まれは大阪の高石市です。でも一番長く住んだのは堺市で、40年弱になりますね。子どもの頃の高石市は、白砂青松の綺麗な海岸がありましてね。もっぱら海で遊んでいました。魚を釣ったり貝を採ったり、海での遊びを色々経験してるので、ものすごく楽しい少年時代でした。残念なことに、今は埋め立てられて堺泉北臨海工業地帯になっていますが、浜寺公園に松林は残っています。牧歌的な雰囲気でとてもいいところだったので、少し寂しいですね。水平線がずっと見えていて、淡路島なんかもそこから見えてたんですよ。

    眞理子さん:私は今住んでいるまさにこの家で、生まれてから高校まで育ちました。まだ小さい無邪気な頃の私にとって、ここは楽園でしたよ。山があって田んぼがあって、小川があってトンボが飛んでて、曼珠沙華の花は咲くし畑に行って一日中遊んで、もうここが大好きでした。高校生になったら、駅までの自転車の道のりや汽車の車窓の風景を飽きずに眺めてました。当時はまだ鍛冶屋線が走ってたんです。主人は海で楽しい少年時代を過ごして、私は山で楽しい少女時代をおくっていたんです。
     高校を卒業してから、一年間だけこっちで染色工場に就職しました。当時はまだ播州織の染め・織り等の工場がありましてね。でも、9割以上の友達はみんな大学にいってるということもあったし、その頃はここのしがらみから逃げ出したいという思いもありまして、大阪の語学系の専門学校に入ったんです。その頃は就職の条件もとても良くって、卒業してから貿易会社に就職しました。私は阿倍野にいて、主人は東住吉にいたんです。主人と知り合ったのは地域の企業が集まって、ピクニックに行ったり、リクリエーションをしたりとかする場でした。当時は、そういう会社での行事がよくあったんですよ。そこで知り合って、大阪に出てから2、3年で結婚したので、独身生活は短かったですね。同郷の友達と2人で部屋を借りて住んでいたんですけど、大阪での生活は自由でしたねぇ。お給料も良かったですし。
     結婚後は、子育てをしつつ、ちょこちょこバイトに行ったりしてたんですが、夫の独立と共に経理をすることになりました。数学大っ嫌いだったんですけどね…。


  • 安定した生活を捨てる

    和義さん:私は元々、建築に興味があって高校はそっちに進みたかったんですが、いろいろあって電気の方に進みました。電気なんて大っ嫌いだったんですけどね。だから柔道ばっかりやってました。卒業後は大手でなく、あえて中小企業を選んで就職しました。そこでトップを取ってやろうと思ってね。ところが、その会社が電気科の新卒を採用したのが初めてだったんですよ。それで、就職してすぐにいきなり工場長に現場に連れて行かれて、「君、これわかるやろう」と言って機械の配電盤を見せられたんです。わかるわけがないですよ。それで、就職してから熱心に電気の勉強をしました。  私が配属されたのは自社で製品を開発する設計部門で、おもしろかったんですが、結局33歳のときに会社を辞めました。私は個性が強いんで会社の組織に馴染めないというか、300人ぐらいのこの会社をこうしたいと思ってもそんなの聞いてもらえないでしょ。やりたいことを自分でやろうと思ったら、やっぱり自分で組織を作らないとダメだと思いましてね。それと、何か技術を身につけようと思いまして看板屋に転職したんです。建築に行きたかったし、図面を描くのも好きだし。その時にはもう結婚して子どもも2人いたんですが、苦労しました。給料も1/3に減りましたしね。親方に筆を持って文字を書くところから教えてもらって、3年間お世話になりました。その頃は食べるのがやっとで、この人(眞理子さん)、よう許してくれはった。

    眞理子さん:親も反対してましたね。安定した仕事を辞めて、どうしてって…。

    和義さん:あの頃は、若い人も多くてエネルギーに溢れてましたね。私も親方の所を辞めてガレージを借りて独立の準備をしてました。昭和62年に会社を立ち上げたんです。ところが時代は、手書きから印刷へと変わる時でしてね。指を怪我したこともあったんですが、私もこんなことしてたらいかんと思って、書き文字から印刷の方へとシフトしていったんです。赤井英和の「どついたるねん」ていう映画あったでしょ。全部じゃないけどあれに出てくる看板を作ったのが最初でした。
     地元の堺市での仕事もありましたが、大きな仕事は全部大阪でした。会社には営業を置いてなかったんですけど、ありがたいことに出入りの業者さんの紹介だったり、口コミで仕事が入ってきました。下請けは嫌だったので、提案型の仕事をしました。看板広告って、どんな材料でもどんな発想でもいいんです。顧客である会社が発展すれば。妻に経理を任せて、デザインや設計、申請専門など、人もどんどん育てました。人こそ財産です。2人で始めた仕事が、リタイヤ時には8人になっていました。
     今、多可町にいることもそうですが、私は本当に好きなことばっかりやってきたので、楽しい人生を送らせてもらってます。妻はそれに振り回されてきたと思いますが…。

    眞理子さん:主人は、本当に思いっきり人生を生きてますね。社員にも恵まれて、信頼されて仕事ができたし、おもしろい仕事は取ってくるし。看板って同じ仕事がないんですよ。それもおもしろかったと思いますよ。社員さんには気持ち良くいいものを作ってもらうというのは、主人の裁量ですしね。やりがいがあって、楽しくてしょうがなかったと思いますよ。時々、娘なんかも手伝いに来てくれたりしたんですが、「お父さんみたいなボスだったらいいわ~」って言ってました。


  • お金では買えない財産を守る

    和義さん:60歳になったら引退しようと思って、準備を始めたんですよ。デザイン力が無くなるし、担当者が年々若くなるので、取引先も大きな会社だとこっちが上から目線になったらアカンと思って。会社の中で、一番ふさわしい人物を選んで、継いでもらうことにしたんです。それで、徐々に一線から身を引きました。一切口出ししない代わりに、一切俺を頼るなよということで66歳で会社から手を引きました。この前、顔を合わした時に「今も社長のイズムが浸透してますよ〜」って言っていました。嬉しいですね。

    眞理子さん:私たちの仕事って、燃やせない材料がいっぱい余る仕事だったんですよ。悪く言えば、物を買えー、作れーって消費をうながして、カッティングシートの残りとか、プラスチック素材の端材とか、少しは幼稚園に教材として差し上げましたが、結局は廃棄することになるんです。自然に帰らないものばっかりだったんですよ。だから、こうゆう仕事って良くないな…という思いがいつもあってね。でも、多可町に帰ってきたら全てが循環するものばかりでしょう。捨てるものが無いっていうか、余ったものは堆肥になるし、もう180度生活が変わりましたね。

    和義さん:妻の父親が、ここで1人で暮らしてたんですけど、癌を患ってね。中皮腫だったんですけど、治療ができるのが兵庫県の青野原と堺市でした。私たちが住む堺市の方が何かと都合がいいので堺市の病院に入院し、そこを退院してから2年半我が家で預かったんですよ。その時に、おやじの人となりというか、今までに感じたことのない身近さを感じたんです。
     その義父が、自分がいなくなったら多可町のこの家が空き家になってしまうことをすごく危惧してましてね。次につなぎたいという強い思いがあったようです。2009年か2010年頃かな、決心して義父に「私たちが継ぐ」と言ったら、ものすごく安心してくれました。
     私が初めて多可町に来たのは、結婚する1年前くらいでした。ちょうどその日は農薬散布をしていて、嫌な匂いがしていて初めの印象はあまり良くなかったんです。でも、歳を取るにつれて価値観が変わってきて、この環境もいいかなと思うようになりました。それに義父が残してくれた財産として、資産だけじゃなくて、ご近所とのおつきあいや村の世話、父の人となりを 他者から聞く中で、お金で買えないものを私たちが守っていかなアカンのと違うかなという思いになってきたんです。

    眞理子さん:父は、母が亡くなってから約10年間独り暮らししてたんですけど、ずっと「この家どうなるんかな…」って心配していたと思うんですよ。辛かったと思います。


  • 「多可町オーガニック・エコ農業をすすめる会」の立ち上げ

    和義さん:私は農業なんて全然興味なかったんです。それが、土を触ってると愛おしくなってくるというか、人って変わるもんですね。やってみて初めてわかりました。だから、今はもう楽しくてしょうがないです。次、何を植えるんやって。

    眞理子さん:農地は6反あるんですよ。そのうち4反は田んぼでお米を作ってもらって、残りの2反を私たちの畑にして作物を作ってます。しかも有機農業で。田舎へ帰ってきたのに、農薬使ったり化成肥料使ったりしたら意味がないんじゃないかと思ってね。

    和義さん:もう1年中畑に出てます。冬は冬で、堆肥を作ったり燻炭を作ったりしてますから、ご近所では「冬も畑に出てるんは中尾さんくらいや」って有名なんじゃないですかね。耳があか切れしたりしてますけど、四季を通してやりたいことがいっぱいあって、もう楽しくてしゃーないです。

    眞理子さん:自然が身近な生活、これが本来の人間の生活だと思いますね。でも、「米は仕方なく作ってる」「畑は手間がかかるので、できる限りやりたくないわー」っていう人も多いんです。私たちが草引きしてたり石拾いしてたりしたら、「よ~やるね」って不思議そうにされるんですよ。みんなうっとうしいと思ってるみたいですけど、おもしろいんです。日々がすごくおもしろい。私たちはやったことないからこんなに楽しめるのかなと思いますね。
     目指すはパーマカルチャーだと思うんですけど、残りの人生、そうやって生きていきたいなと思っています。ここでは田舎でしかできないことができるから、この暮らしがとても気に入っています。今年、初めて自分で育てた黒豆と白い大豆、青豆の3種類の味噌を仕込んだんです。夢だったんですよ。出来上がりが楽しみです。

    和義さん:義父の財産のひとつが、この違う世界観だと思うんです。農業ってモノづくりの最たるもんなんですよ。堺市でずっとモノづくりの会社を経営してきましたけど、それと違うのは、天候との勝負だということなんです。大変なんだけど、これがまたおもしろくてね。毎年毎年違う環境で、毎年おもしろくて。その中で工夫しながら作っていくというこの喜びはね、絶対ハマると思いますよ。
     ところが、私の中に流れている起業欲というか独立心というか、やるからにはやっぱり発展していかなければという思いがありましてね。それで、オーガニック野菜を作ってるというのは環境の面もありますけど、産業としてこれから農業をいかに強いものにしていくかといえば、やっぱり従来のやり方をやっててもダメだと思うんです。なのでオーガニックを産業化するようにやっていこうと、「多可町オーガニック・エコ農業をすすめる会」という会を作りました。その最初のイベントが2018年4月22日(日)に、まちの駅・たかで行う「軽トラ・ファーマーズマーケット」なんです。軽トラにオーガニックの野菜を並べて売るんですけど、今、15人くらいに声をかけてます。
     今後は、京阪神にも販路を広げたいですね。こういった小さな団体がたくさんできあがってくるのはいいと思うんです。まちの活性化に繋がると思うんですよ。こんな歳やからたいしたことはできないけど、何か若い人に影響が与えられたらと思います。

    眞理子さん:有機ということを中心に呼びかけてるので、出店して下さる方は少ないかもしれないんですけどね。主人はこれまでの人生を振り返っても、いつも先頭に立つ人でしたね。仕事はもちろんですけど、その他のことでも「行くで~」って人を引っ張っていく人です。そういう事は主人に任せて、私は自分の育てたもので、マクロビ(自然食)のスイーツとかお惣菜を開発して作って、将来的には売れるように持っていければなって思ってます。
     大阪にいる時から手作りは好きだったんですけど、保健所に届けを出して自宅に加工場も作りました。


  • 外から見た視点でのまちの魅力

    和義さん:私は田舎の常識を知らないでしょ。だからこそ自由にできるんです。いろんなことがありますけど、総じて多可町のことは気に入ってますね。ただ、やっぱり人口減の問題があるので、特徴のあるまちづくりをして、かつ継続性のあることをしていかないとという思いはあります。いろんなポテンシャルがあるのに、そのままにしていると思うんです。外から来た人間が、かえって多可町の良さをわかっているという面もあると思うので、上手にストーリー性をもたせて盛り上げていければと思いますね。

    眞理子さん:安楽田の旧道に疎水があるんですけど、今でもサワガニがいて水もとっても綺麗なんです。そういうこの土地の良さを地元の人が気付いてないんですよね。だから、そういう所を巡るツアーなんかあればいいなと思います。

    和義さん:観光客を受け入れると、初めて地域として自分たちがやっていかなければいけないことが見えてくるというか、そこで気づきがあると思いますね。

    眞理子さん:これからも、この地域と父が遺してくれた家を大切にしながら、多可町での暮らしを楽しみたいと思っています。