VOL. 12

坂田 陽子 さん

地区:加美区市原

 2016年に多可町に越してきた坂田さんですが、2018年、カナダ在住のハリルさんと結婚することになり、バンクーバーへの移住を決意。わずか2年間の多可町での暮らしでしたが、この地は彼女にとって他とは違う心地良さがあるようです。「もし日本に帰ってくるなら、多可町に帰って来たい!」と言う坂田さんに、多可町の魅力について語ってもらいました。(H30.12.22)

  • 生い立ち

      生まれは兵庫県姫路市の的形というところです。潮干狩りが有名で、干潟がとてもきれいなことで知られている場所です。子どもの頃はよく海で遊んでいました。高校までは市内の学校に通っていましたが、すごく真面目な子どもでしたよ。今からは考えられないですけど…。
     子どもの頃から動物が好きで、大人になったらムツゴロウさんの動物王国で働きたいと思っていたぐらいです。小学生のときにはジュンという雑種の捨て犬を飼っていましたし、その後も保健所で犬を引き取って来たりして、いつも動物がそばにいたような気がします。今もエムっていう猫がいますが、一緒にカナダに連れて行くことになっています。
     自分のやりたいことをやっているといつの間にかこんな感じになってしまって…、多可町の後は、ついにカナダに行くことになったんですけどね(笑)


  • 恩師との出会い

     小学校の先生になりたかったので、大学は須磨にある神戸女子大学の教育学科に通っていました。教育実習も行ったので、小学校の教員の資格は持っているんですよ。
     小学校の先生っていろんな教科の勉強をしないといけないので美術の授業もあったんですけど、大学に入った最初の美術の授業のときに、その先生の第一声目で雷に打たれたみたいな衝撃を受けたんです。イタリアに留学して勉強された新谷琇紀(しんたに・ゆうき)先生っていう具象彫刻の先生で、公共の場にある彫刻をたくさん手がけていて、イタリアの芸術や文化などの研究もしておられる方でした。
     言葉のひとつひとつや考え方など、その先生の人物像にとても魅力を感じたので授業が終わってからすぐに研究室を訪問しました。その後、先生からイタリア美術文化研究会というサークルに誘われたので、それに入って一緒にイタリアのことについて勉強をしていましたが、そこから私の人生は教育よりも美術に方向が変わっていきました。


  • 阪神・淡路大震災を経て

     1994年に大学に入学したのですが、私が1回生だった95年の1月に阪神・淡路大震災がありました。新谷先生の実家が全壊でアトリエも半壊して、ものすごくショックを受けておられました。なので、ボランティアで片付けのお手伝いをするようになったんですが、だんだんそれがメインになってきて先生の助手をすることになりました。それまでは姫路の実家から学校に通っていたんですが、ほぼ住み込みみたいな形で制作の助手や震災で壊れた作品の修復などを手伝うようになりました。
     先生のアトリエは、いつもいろんな文化的な人たちが集っていて、お酒を飲んでそのまま泊まっていくような場所だったので、アトリエとホテルを兼ねた「ホテリエ」って呼ばれていました。イタリア美術文化研究会ではイタリアにも旅行に行きましたし、小豆島でオリーブの研究をするといえばそれにも付いて行ったりして、いろんなことを体験して学ばせていただいたと思っています。


  • 恩師との別れ

     子どもの頃から、自分は真面目な人間だと思っていたのでそんなに変わっているとは思っていなかったんですが、美術関係の仲間内から、坂田は変わっていてユニークだって言われるようになりました。言われてみると、みんなが盛り上がっているときに自分だけ何だか盛り上がれなかったりして、ちょっと人と感覚が違うのかな…とは感じてはいました。
     イタリア語でユニークのことをウニコって言うんですが、ユニークって変わり者とか変な人という意味じゃなくて、「たった一つのオリジナル」という意味があるので、先生は「ユニークで良いんだよ」と肯定してくれた人だったんです。なので、しばらく私のあだなはずっとウニコでしたし、自分でも気に入って使っていました。
     卒業後も、新谷先生のアトリエと神戸女子大学で助手をしていたのですが、2006年に先生が病気でお亡くなりになってしまいました。とても尊敬している方だったので、自分の中にぽっかり穴が空いてしまったみたいで、そのときに私の半分も一緒に死んでしまったような…。自分の人生は、これで終わったな…という感覚でしたね。


  • 2つ目の大学に通う

     助手をしていたときには全然お金を使わなかったので、先生が亡くなった後にイタリアに留学するか何か大きな買い物でもするかして、新しい人生を歩みだそうと思いました。せっかくだから4年間の時間を買ってもう一度美術の勉強をちゃんとやりたいと思って、先生が亡くなった翌年に倉敷の芸術科学大学に入学しました。2007年だったので、私が32歳のときかな…。4年間彫刻の勉強をしたのですが、比較的自由な時間があったので、学生をしながらバイトをすることにしたんです。
     昔から動物が好きだったので、近くのクレイン倉敷という乗馬クラブで厩舎の掃除のバイトをしていましたが、馬のお世話なので、それが毎日あるんですよ。356日。そうやって馬に接している間に、馬のことがとても好きになって、卒業制作では等身大の馬を作りました。馬具の展示用に置いてほしいと言われたので、クレイン倉敷に寄贈させていただきました。今でも、販促に一役かっているそうです。


  • ホースセラピーの施設で働き始める

     他の若い学生たちは3回生ぐらいになると就職活動をするようになるんですけど、私はその後どうしようかな…と迷っていたので、卒業後その大学で1年間事務のアルバイトをさせていただいていました。ずっと大学という場所に関わって生きてきたので、一般社会には一度も出ていないんですよね。大学って、「教育なんて時間がかかるものだ」とか「研究内容をとことん突き詰めろ」みたいな場所なので、世間の競争社会に比べるとのんびりしていて自由な感じなんです。そういうところに長くいたので、私にもそんな感覚がどこかにあるんだと思います。
     実は、3回生から4回生になるまでの間に1ヶ月間休みがあったので、テレビで目にした千葉県のホースセラピーの施設で働いたことがあるんです。電話をして「研修をしていますか?」って問い合わせをすると、「いつでも来て」って言われたので青春18きっぷで千葉まで行って、1ヶ月間住み込みで働きました。そこで、やっぱり私って馬が好きなんだって感じました。そのままずっとここで働いて!って言われたけど、ちゃんと大学は卒業したかったので一旦戻って4回生を終えて卒業し、再度そこに電話をして「従業員になりたい」ってお伝えしたんですが、そのときには他に働いている人がいたみたいなので「今は雇う余力がない」って言われました。でも、どうしても働きたかったので「お金いらないから研修生として働かせてください」とお願いして、寝るところと食べるものだけお世話をしてもらって住み込みで働きました。なかなかきつい仕事なので続かない人もいて、3ヶ月後に従業員として雇ってもらえることになったんです。それからは、毎日馬のお世話は当然ですが、障害のある利用者さんたちのサポートなどの仕事をしました。


  • 多可町との出会い

     ご縁があって2016年に多可町に馬を連れて来たときのことなんですが、役場にゴミの出し方を聞きに行ったときの印象がすごく良かったので、この「まちに住もう!」って決心しました。当時は役場が工事中だったので小学校の仮庁舎だったんですが、職員の皆さんがすごく親切でしたし、廊下でウロウロしていた私を見つけてくれた当時の町長さんが丁寧に担当課まで案内してくれたので、「ここは絶対良いまちだ!」って思いました。普通、都会の役場だとずっと待たされてそっけない対応で終わってしまうという印象なのですが、「なに、このまち!素敵すぎる!」って感じました。
     そこで対応してくれた課の人に、観光のこととかまちのことをいろいろお聞きしていたんですが、そのときに「もし移住するとすれば…」という話をポロッとしたんですよ。そしたら定住推進課を紹介してくれて、八千代の仮庁舎から中区の仮本庁舎までの道筋を懇切丁寧に教えてくれたんですよ。感動しました。定住推進課で定住コンシェルジュを紹介されたんですが、「えっ!?コンシェルジュってなに!?」「このまちって、そんな人がいるの!?」って思って、「会ってみたい!!」って思ったので、即、行ってみたんです。そしたら、小椋さん夫妻がご自宅にも上げてくれてとても親切に対応してくださったので、ホントにこのまちのことがすごく好きになりました。まだ移住するって決まったわけじゃないけど、その前に何人かでも知っている人がいるだけでも心強いですよね。これが、2016年11月のことですね。その後も、コンシェルジュの小椋さんには自宅でのコンサートとか、移住者の交流会などにも誘っていただいたので、そうやって少しずつ町内のお知り合いが増えていきました。


  • 初めての介護の仕事

     多可町に住めたら良いな…とは思いましたが、まずは仕事を探さないといけないので、ハローワークに行って紹介されたのが介護の仕事でした。たぶん、ホースセラピーで障害者のお世話をしたりしていたので、その仕事が向いていると思ってもらえたんでしょうね。リハビリの部署に配属されたのですが、介護の資格を持っていなかったので、半年間かけて資格を取りました。半年間、土曜日を一回も休んではいけないので、結構厳しい内容でしたよ。でも、やりだしたら何でも一生懸命やるので、テストは受験者の中でも最高点でした。

  • 山に守られた安住の場所

     千葉からこっちに越してきたときには、その施設を辞めるにあたっていろいろとストレスがあったので、かなり身も心も疲れていて自分自身にも負い目があったんですね。最初に多可町に来たときに、なだらかな山に囲まれて守られている感じがしたんです。たぶん地形的なものだと思うんですが、濃霧と虹がよく出る場所なので、自然の要塞みたいで自分を守ってくれているみたいだったんです。フェデリコ・フェリーニの映画が大好きなんですが、映画の演出で濃霧がよく出てくるんですよ。なので、この幻想的な夢の世界の中に私がいる…っていう感じで、絶対ここに住みたいって思いました。私の場合は、多可町っていうよりも、やっぱり加美なんです。ここの地域の雰囲気は特別だと思います。うまく説明ができないけど、ここに住まないといけないような気がしましたし、千ヶ峰が守ってくれているみたいに感じました。
     それと、私が最初に多可町に来たときに会ったのが、人間じゃなくてイノシシなんです。聞かされていた住所とは違っていたので、馬運車って大きくて細い道には入っていけないから私が軽自動車で探し回ったんですが、林道で会ったのがイノシシ。その後、厩舎の周りにも鹿が群れで出てきたりして、鹿がキュンキュンって言うので私もそれを真似して鳴いてみると、鹿がまたキュンキュンって応えてくれるんです。私、鹿と話ができてる!って感動しました。子どもの頃にムツゴロウさんの動物王国で働きたいって思っていたけど、ここがそうやん!って思いました。きっと、それまで疲れていて周りの環境とかに目を向ける暇もなかったので、余計にそう感じたんでしょうね。


  • カナダへの移住

     結婚する相手は、フェイスブックで知り合いになったのがきっかけでした。馬好きのグループに入っていて、私も猫とか花の写真をアップしたりする程度だったので、動物とか自然の他愛のないメッセージのやり取りから始まったんですけど、2018年の3月に、実際に1週間ほどカナダに行ってみることになったんです。そこで初めて会って、結婚しよかという話になりました(笑)。
     いろんな人に、「坂田さんはやりたいことを実現している」とか「外国人との結婚はハードルが高い」とか言われますけど、何かを無理してやっているという感覚は自分では全然ないんです。流れるがままに、自分の直感で生きているといつの間にかこうなったという感じです。それに、日本人同士でいくら話をしても通じない人には通じないので、言葉の面は何とかなるかなという気がしています。結婚相手はトルコ人で両親もトルコにいるので、10月に再度カナダで1ヶ月一緒に過ごしたときにトルコにも連れて行ってもらったんですが、トルコ語はまったく通じなくても、何となく通じるものはありました。馬でも人間でも、通じないなら通じないで、どうにかしてその状況から判断をしないといけないので、言葉以外のやり取りには慣れているのかもしれませんね。
     恩師を亡くしたときにも思いましたし、震災のときにも感じましたが、人ってホントに亡くなるっていうことを痛感しました。介護の仕事をしていてもそうですが、こないだまで元気だった人が死んでしまうんです。人の世は無常だなと思いました。もしかすると、明日自分が死んでしまうかもしれないので、自分が信じた道はやってみようかなと思っているんです。


  • 多可町という場所

     私は、四柱推命でいうと「雪解けの奔流」だそうです。一つの場所に留まると濁って腐る…という運命に生まれているようです。なので、ずっとカナダに住んでいるとも思えないので、もし将来日本に帰ってくることがあれば、やっぱりそれは多可町を選ぶだろうなという気がしています。人間ってイメージしやすいことってありますよね。例えば、20年後にこのまちに帰ってきて、仲良くしてもらっている多可町の仲間と一緒におじいちゃんおばあちゃんになってワイワイ言っている姿は、何となく容易に想像ができるんです。
     このまちでは、ホントにいい人たちに会えました、そのために多可町に来たと思えるほどです。多可町の千ヶ峰って男性的厳しさがあって、妙見山は女性的な優しさがあるんです。厳しいと言っても適度な厳しさで、地域の皆から親しまれて愛されているし、山も地域の人を守ってくれている素敵な場所だと思います。もしかすると私が帰ってくるころにはどこかと合併したり名前が変わったりしているかもしれませんが、山が無くなるわけではないし、そこに住んでいる人の温かさは変わらないと思います。
     私が関わってきた町内の古民家改修の活動をカナダやトルコの人たちに見せると、本当に感動してくれるんですよ。子どもから高齢者までが一緒になって古いものを大切にして活動したりしている姿に、日本人の心とか姿勢を垣間見てくれているようです。そういったことを、カナダに行っても伝えられたら良いなと思っています。