VOL. 3

矢尾 一夫さん&矢尾 多真紀さん

地区:八千代区大屋

 多真紀さんの生まれ故郷である多可町八千代区大屋に、4人家族で戻ってきて新たな生活を始めた矢尾さんご一家。
 一夫さんは、介護の仕事をしながら、子供たちに図工を教えたり自然の中で一緒に遊んだりと田舎暮らしを満喫中。多真紀さんもご実家の隣に建てた新たな環境で、安心して桧宗くんと一華ちゃんの子育てをされているとか。
 そんなご夫婦が、都会暮らしにはない田舎の魅力をたっぷり語ってくださいました。(H28.12.10)

矢尾 一夫さん(多可町内の介護施設勤務)
矢尾 多真紀さん

  • 子供時代から大人になるまで

    一夫さん:小さい頃から転校組でした。僕が子どもの頃に両親が離婚をしたので、3歳から小学2年生までは祖父母と一緒に暮らしていたんですが、その暮らしが親との暮らしとはまた違ったもので、祖父母のあたたかさというか田舎っぽさというか、それがきっかけで「田舎暮らしがいいな~」って子供心に思い始めたんだと思います。
     高校を卒業して5年間調理師として働いたんですが、「これでいいのかな…」ってちょっとしんどくなってきて、23歳の時に1年半ほど長野県の牧場にバイトに行ったんです。それがすごく自分には良くて、車もタクシーも無い、駅まで歩いて40分もかかる、テレビも見れない…。なので、休みの日には本を読んで過ごす。そんな環境がとても幸せに感じたんです。経営者の社長はとても厳しい人だったんですが、すごく優しい一面もあって、その社長との出会いが僕の人生の転機になりました。そのバイトを終えて神戸に帰った頃に、妻と出会いました。
     少しは蓄えもあったし、しばらくのんびりしようかなと思っていたんですが、じっとしていることが3日で嫌になっちゃって、もう24歳にもなるのでフラフラしてられないなと思って建設業の仕事につきました。元々ものを作るのが好きだったので、工具の使い方が覚えられたら良いやという軽い気持ちで始めたのですが、6、7年続きました。
     今でも実父とは仲良く付き合いがあるのですが、前から「男はなんでも出来るようにならないとダメだ。何をしていてもいいから食べていけるようにしていかんとあかんぞ」と言われ、その言葉がずっと心に残っていたんです。


  • 人がいる中での孤独感

    多真紀さん:神戸では待機児童の数がすごくて、なかなか子どもを預けられる所がありませんでした。ちょっと高かったんですが、月に7万円ほど払って預けていました。とにかく安定した収入が欲しかったので、何とか子どもを預けて自分も働き口を探したかったんですが、市役所の窓口に相談に行っても「そんなお母さんは他にもいっぱいいます」の一言で門前払いでした。そこで仕方なく、時間単位で預かってくれるところに預けていたんですが、そうなるともう時間に追われて…。ちょっとでも早く迎えに行かなきゃ!と思って、ダッシュで送り迎えしていました。
    都心部にもいろいろな制度や相談窓口があったのかもしれませんが、当時は相談するところもなく、すごく孤独でした。「助けがない」っていうのは寂しいですよね。人はたくさんいるのに孤立しているっていうか、それって一番不幸なことですよね。

    一夫さん:当時、僕は建設業で独立していたので、とにかく仕事仕事で一人で何でもやっていました。そのときに、「自分は一体何がしたいのかな…」という思いが湧いてきて、ずっとモヤモヤしながらどこかもどかしい部分がありました。
     その頃は仕事も安定していなくて、月々の収入にかなり落差があったんです。長野から帰ってきてから、ずっと自分の信念としてユニセフのマンスリーサポートをしているんですけど、毎月2千円払うのも苦しい時期もあって、妻の顔がだんだん暗くなってきて些細なことで揉めたり、追われてばかりいる生活に嫌気がさしていたんです。
     そんなときに、以前コンビニでたまたま目にした雑誌「自休自足」の表紙に書かれてあった「若者よ、田舎へ急げ!」というキャッチフレーズが頭に浮かんできて、「田舎へ移住しよう」と思いました。どうせ転職するなら、ここでも田舎でも同じだと思って、思い切って飛び込もうと思ったんです。


  • 外に出て見えてきた田舎暮らしの心地よさ

    一夫さん:2009年に多可町に引っ越して来ました。ここに来ること自体には何の迷いもなくて、「新しい生活が始まるんだ!」という思いでワクワクしていました。今住んでいる場所は妻の実家の隣なんですが、妻の両親がホントに良くしてくれて、今まで自分が感じたことのない、まるでサザエさんに出てくるようなお義父さん、お義母さんなんです。あたたかい家庭を築いておられて、物を粗末にしないとか、日々感謝をして生活をしておられるとか、そういう意味で本当に正しく生きておられるんだなと思いました。

    多真紀さん:私はその正しさが逆に窮屈で、「外に出たい!」と思った時期があったんですけどね。私は生まれも育ちも多可町で、就職を機に町を離れました。そのときに主人と出会って、結婚して2人目の子供ができたときに里帰り出産のつもりでここに一旦帰ってきたんですが、そのままこっちで暮らすことになりました。ずっとここで暮らしているときは「出たい、出たい」と思っていたんですが、一旦外に出てみるとここに帰りたくなったんです。友達もたくさんいましたし、時々帰るとホッとするというか、楽なんですよね。都会での暮らしはどこかで無理をしていて、そのときは毎日が必死だったので気がつかなかったけど、相当無理をして、しんどかったんだと思います。

    一夫さん:せっかく田舎に越してきたんだから、時間に追われず、のんびり過ごしたいと思っていました。それで、介護の仕事をしているお義母さんから今の仕事を紹介してもらって、新しい仕事にチャレンジすることになりました。また同じ建設業をしても、独立していた経験がある分、我が出るということもあってまた同じことの繰り返しになるので、田舎ではまったく違う仕事をしようと思ったんです。結局、その場に住んでこの地に入ってしまえば、何とかなるもんです。

    多真紀さん:都会にはあるけどここには無い物が多いんですが、その逆もあるし、きっとその分やれることは多いと思うんです。そこでチャンスを見つけてくれればと思っています。

    一夫さん:仕事に情熱を持ちすぎると、それしか見えなくなってしまうと思うんです。特に自分はそういうタイプなので、他のことが見えなくなるんですよね。今の仕事は、田舎の生活を満喫するための仕事なので、家庭と仕事の両方をうまくバランスが取れる感じです。

    多真紀さん:帰ってきて2年ぐらいは両親と同居していたんですが、2012年に実家の敷地内に新しい家を建てて住むことにしました。こっちに戻って来て4人で生活をしていると、「私って、こんなに素敵なところで育って来たんだな…」って改めて感じるようになりました。


  • 自然の中でのびのび子どもを育てたい

    多真紀さん:ある日、神戸で保育園を見に行ったことがあったんですが、子どもが廊下にびっしり体育座りをしている光景を見たときにびっくりして、「これは無理だな…」と思いました。自然の中で走り回って育った私がいた環境とあんまりにも違ったので、うちの子はここで育てたくないと思ったんです。
     ちょうど3歳の頃かな…長男の発達段階でちょっと言葉が出にくくなったことがあったんです。専門家の方にそう言われてもどうして良いのか分からなくて、神戸では時間の余裕もなくて有耶無耶になっていたんですが、こっちに帰って来てからは保健師さんがトントン拍子に「ああしましょう。こうしましょう」とアドバイスをくれました。それがこっちに帰って来て初めての驚きで、ホッとした出来事でした。子どものことは不安もありましたが、「一人じゃないんだ」という安心感がありました。地域の皆さんと、とても距離が近いなって感じられることがとても心強いです。

    一夫さん:こっちには甥っ子もいて、それも大きかったと思うんですよね。それまで2人だけで子育てをしてきましたが、いろんな子どもの成長する姿を見て「一人ひとり違っていていいんだ」って感じました。

    多真紀さん:就学前に保健師さんがいろいろ検診してくださって、聴覚や言語の専門家の先生、お医者さんの判断も受けて、小学校は普通のクラスに進学させることにしました。
     キッズランド時代からずっと引き継がれたサポートファイルというのがあって、ずっと子どもの成長を見てくれていた先生がこれまでの記録を引き継いでくださっていて、今までの経緯を知った上でいろいろ相談しながら対策を考えてくれています。それってすごく大事なことで、子どもの変調を表沙汰にせず一人で抱え込んでいるお母さんもいらっしゃるかもしれないけど、子どもにとって何が一番良いかって考えたときに、こういった引き継ぎがあることが子どもにとっても親にとってもとても大切なことなんだなと感じました。
     繋がりってすごく良いですよね、あたたかくて。保健師さんには本当にいろいろ助けてもらいました。皆さんのおかげで、成長とともに発達段階も他の子と変わらないほどになってきているように思います。

    一夫さん:子どもと一緒に川に遊びに行って外でご飯を食べたり、上半身裸で道を歩いたりできるような環境で子どもを育てたかったんですよね。ここではそれができる。今でも夢のような生活だと思っています。


  • 絵と子どもたちに向き合う時間

    一夫さん:成績は悪かったんですけど、子どもの頃から図工は好きでした。祖父は漁師だったんですが、絵を描いたり物作りが上手かったので、それを見ていたからというのもあるかもしれません。
     こっちに住み始めてから僕が物作りが好きだというのを知って、子育て支援センターの方から図工の先生になってくれないかと言われて、子どもたちに図工を教えることになりました。彼らがのびのび作品を作っている姿を見ていると、こちらが教えられることもたくさんありますね。
     ちょうどその頃、図書館でのイベントのお手伝いに行ったときに初めて画家の来住しげ樹先生とお会いしました。僕が描いた絵をフェイスブックに投稿していたら、コメントをくださったりして、うちに来ないかと先生に言われたのですぐ行ってみたら、もう「僕の弟子です」と他の方に紹介してくださいました。それから先生のところでお世話になって、本格的に絵を描き始めるようになりました。自宅にも絵を描く専用のスペースを作ってあるので、そこで絵を描いているときが一番落ち着きますね。


  • 多可町での暮らし

    一夫さん:3年ほど消防団に入るのをずっとためらっていたんですが、腹をくくって入ったらハマってしまって、結局2年間どっぷり浸かってしまいました。部活感覚で楽しかったですし、練習の後の飲み会で皆と仲良くなったらいろんな繋がりができて、そこから子ども同士も仲良くなっていきました。
     田舎に来て戸惑ったことと言えば、お宮さんの当番やお葬式の手伝いがあったり、協議費が都心部よりも高かったりすることぐらいかな…。でも、それもなぜ必要なのかということを知れば納得できることなので、それも含めてここでの生活の一部になっています。

    多真紀さん:こっちに帰ってきて、主人はすごく変わりました。神戸では眉間にしわを寄せていることが多かったんですが、ここで暮らし始めて本当に表情がすごく変わりました。最初は帰って来ることに少し不安もあったけど、主人が「ここに住みたい」って言ってくれたので決心しました。
     今では多可町に帰ってきて、本当に良かったと思っています。